さて、振り返ってわたしのことをみよう。これを書いているのは、その取材から1年過ぎたある日だ。この時差は、ひとえにわたしの至らなさゆえにおきたことだ。でもこの間、一度も、わたしは彼にせかされたことはない。ただ、じっくりと発酵するその時間をわたしが必要としていることを、彼は恐らくわかっていたのだろう。何度でも、インタビューに答えてくれ、資料をたくさん見せてくれた。
その彼の成長を見守る様子は、彼の作品に通底するひとつのことと、とても深い関わりがあると、わたしは思う。
マスキングプラントが伸びてゆく。伸びてゆくその様子を見るとき、わたしは安堵する。植物が伸びてゆくその様子、大きくのびのびと伸びてゆく。その成長を止めるものはいないし、その成長が誰かの邪魔になることもない。ただ、だんだんと大きくなってゆく。彼の手を通して、ともに植物が育ってゆく。時間をかけて。至極当たり前でいて、意外とないこと。
例えば、雑草が伸びすぎれば、人間はあまり躊躇もせず、それを切り払う。あるいは緑が好きならば、園芸をたのしむ。しかし、その緑は、好き放題には育てない。剪定される、植え替えられる。伸びすぎた街路樹は枝を切られる。道路工事のために樹は伐採される。あるいは、まっすぐな板を作るためだけに、樹木を真っ直ぐに伸ばそうとする。そこには常に、植物の側の伸びようとする意志と派別の、他者の思惑が関与する。人間の思い通りに、植物の姿を変えようとする力がそこにはある。大げさだが、それを「暴力」と呼ぶこともできる。
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他者との関わりを持つとき、多かれ少なかれそれは人間にも起きていることだ。そもそも人間は植物と違い、生まれ落ちたその時から、誰かの手によって育まれない限り生き延びられない。そこには、必ず他者の「力」が必ず存在する。育てるものは、その「力」を有・無意識に使っている。それは間違えば「暴力」になりかねないが、必要な「力」だ。
淺井が、描いているとき、最も注意しているのはこのことなのだろうと思う。自分の中から出てくる植物を描くとき、間違った力をかけないこと、出てくるものをきちんと手と頭と身体を使って外に描き出してゆくこと。その植物の元は恐らく、淺井の意識の外あるいは奥に起源を持つのだとわたしは思う。それ故に、彼は自分が起こしうる「力」について、これほどまでに自覚的なのではないだろうか。これは、彼の活動全部に通底するもっとも大事なことのひとつだと思う。
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