■ 標本展 〜8.つながる なにが?〜
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図12*
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図12.2階のグランドギャラリー部分、券売所までそれは伸びていた
*印 photo:鶴巻育子
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11月3日の階段部分への仮設展示は終わった。しかし、彼は継続して会場に描き続けた。それはマスキングプラントの成長を止める「クライマックス」の11月26日まで続いた。2階のグランドギャラリー部分、券売所までそれは伸びていた(図12)。美術館に入ると最初に目に飛び込むのはもはやマスキングプラントになった。そして、作品としてのマスキングプラント自身にも必然的に変化が訪れた。今まで壁画、平面を基盤としてできていたマスキングプラントは、館内全部を覆うことから立体作品へと変化し始める。壁画でもなく、インスタレーションでもなく、それはまるで本物の植物のように、あるいは蜘蛛の巣のように、厚みや空間を持ち、存在するようになった。ひとつの場所から曲がり角を通って次の場所へ続くこと、ひとつのマスキングプラントがすべてつながっている。11月26日の会場にはそれが実現されている。彼はこのとき、「マスキングプラントでやりたかったことがなんなのか、わかった」と述べている。
中央に車の作品が置かれ、中には11月3日に作られた標本のひとつである人形が乗っている。そこから隅々へとリンクが張られたその半円形のグランドギャラリー(図13)。マスキングプラントの種であり、実である人形を出発点に、マスキングプラントは様々な場所につながっている。この写真を見るとき、わたしは深く考えてしまう。わたしの言語理解はいつもその作品を超えられない。実際にそのマスキングプラントをみる時に訪れる理解は、もっともっと深く、今でもわたしはそのつながりを言葉にすることができない。
あえて考察を加えるならば、それらのマスキングプラントは最初から意図されてつながりを持たせたものではない。それぞれがそれぞれの育つべき方向に、ただ育っていっただけだ。「何か」を目指しているうちに、多くの壁を越えに越えてきたその果てに、彼は辿りついたのだろう。すべてのもの/ことに余計な力を加えずにつながることができるということに。その「何か」こそ、マスキングプラントの真意であり、淺井の真意であったのだろう。他からの余計な圧力をかけずに、伸びてゆくこと。無理な力を使わずに、本当のタイミングをつかみ取ってゆくこと。それだけで、本来あるべき「つながり」が生まれるのだ。それは何も、とても難しいことではない。ただ、いつでもそこにあるのだ。ただそれを取り出すことが、それを育てることは、植物を育てるのと同じくらい、簡単で難しい。
けれどもまだ、その「あるべきつながり」とは、淺井に見えているつながりとは、いったい何のだろう。