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さかぎしよしおうインタビュー

c
 
さかぎしさんの過去・2

藤田
確かに小難しいパフォーマンスですね。
さかぎしさんに、そんな80年代があったということですね。

さかぎし
当初はパフォーマンス(画像=c)とインスタレーションをやっていました。
パフォーマンスは面白かったなぁ。世の中が丁度バブルだったので、ギャラも出てたんですよ。
だからこれで食べていけちゃうのかなぁ、なんて思っていたらバブルアウトして、話が来なくなってそれで終わりました(笑)。


藤田
あらら。

さかぎし
当時はパルコも元気があったし。
「宝島」なんかもけっこうなサブカル雑誌で、アートのページもあったんですよ。
積極的なライターさんがいて、いろいろイベントも企画してましたね。
そうやって話は広まっていったし、やりやすかったですよ。


藤田
なんでそんなに楽しそうなんですか。
こういうのって次々に仕事って言うか、どうやって話が来るんですか?

さかぎし
ん〜、適当に。ある日突然電話があったりして。


d
個展DM(1985年、かねこ・あーとG1)
e
多摩美術大学創立50周年記念イベント「TAMAVIVANTS」DM(1985年、Studio200)
藤田
85、6年でも、すごい量の展覧会をなさってますね。インスタレーションとパフォーマンスをなさっていたからですかね。(画像=d、e)

さかぎし
あぁ、数的にはけっこうやっていますね。
数はあんまり関係ないですけどね。
で、そんなこんなでもりもりやりながら、89年に「平行芸術展」という、峯村敏明さんの企画で有名な展覧会にも拾っていただいたんですけど、その頃に「絶対にあと何年かで止まるな」と思ったんです。


藤田
自分が?

さかぎし
はい。
おそらく日本の中だけで育ってきたせいかな、と思っていたので、一度美術をやめて全部洗っちゃおう、と。
それで1年「何もしない」にロンドンに行きました。

藤田
それが89、90年ですね。

さかぎし
そうです。
時期的にはベネチア・ビエンナーレにコンプレッソ・プラスティコが出た時。
ロンドンから帰ってきてから、日本にああいうタイプの作品が出てきていることを知りましてね。
いや、ああいうの、本当にわからなくてねぇ。
たった1年いなかっただけで浦島太郎になっちゃったのかな、と思ってそこいら辺の事情というか、いろんな人に聞いてみたんですけど、皆よくわからないって言うんですよ。

藤田
わからないっていうのは、知らないってことですか?

さかぎし
そう。関西の作家だったということもあるんでしょうけどね。
でも、仮にもベネチアの日本代表じゃないですか。知らないじゃすまされないでしょうに。
仕方ないから知り合いをたどって、当時はまだ美術手帖の編集者だったのかなぁ、椹木(野衣)さんと楠見(清)さん、コンプレッソ・プラスティコの松蔭(浩之)さんに会わせてもらったんです。
僕ごときのことなんか彼らは覚えていないかもしれないけどね。
場所は伝説のソウルバー、六本木のジョージで・・・あ、それは関係ないか、伝説ばっかりだし(笑)。で飲みに行って、ご本人目の前にしてなんだけど、やっぱりデザイン、ディスプレイだと。
これは僕が考えて来た芸術の問題だとは思えない、っていう話をしたんです。


藤田
直球で聞いたんですね(笑)。

さかぎし
まぁ直球っていうか、素直なところですよ。
そしたら松蔭さんは「このタイミングで僕らが日本代表になったことが問題なわけですよ」みたいな話になっちゃって。
椹木さんも「彼らの作品にリアリティはあります?」って。もちろん私としては「まったく無い」と(笑)。
楠見さんは今さっきWAVEで見て来たレコードの話になって・・・、あ、WAVE、これも伝説の・・・(笑)。


藤田
WAVEは私が上京してきた頃まではありましたよ、CDとかレコードのセレクトショップみたいなの、ですよね。
しかしよく、そんなこと細かい会話まで覚えてますね?

さかぎし
覚えてますねぇ。真剣でしたからね。
ロンドンから帰ってきて、美術を再びやるかどうか。
いや、やるということについては疑問は無かったんですけど、さて、日本はよくわからないことになっている。
だからけんかをしにいったわけじゃなくて、本当にどういうことなのか知りたかったんですよ。


 
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