《炭鉱7. 沖ノ山炭鉱の採炭切羽-堀》38.0×29.0cm (frame size)紙に墨 2002 撮影:早川宏一
原井輝明インタビュー
Teruaki Harai Interview
あの震災のあとから、東京の夜空に星が見えるようになった。
それまで輝いていたネオンも、明るさをもたらす星も、どちらも「光」っている。
光を描きたい、と模索する原井輝明にとっての「光」は、
果たしてどういった「光」なのだろうか。
INTERVIEWER 藤田千彩
光をテーマにすること
藤田
実は原井さん、PEELERにしょっちゅう登場していただいています。
まず2006年「夜会」(アトリエどま)、2008年の個展、山口県内でのアートプロジェクト。
これらはPEELERの書き手で、山口・宇部在住の友利香さんが書いてくださったものです。
あとPEELERの3周年記念特別企画、同じく4周年企画にも、寄稿いただきました。
でも私自身は、友利さんの記事は読んでいたけれど、この3月に開かれた小島びじゅつ室での「竈神 Hestia展」で、初めて原井さんの作品を見たのです。
つまり、ずっと見ているわけではなくて、通りすがっただけに過ぎない、私は点の鑑賞者なんです。
だけどこの展示を見るまでに、個人的な人とのつながりがいくつもクロスして、原井さんの「作品」よりも「人」が気になってしまったんです。
そういうところでのインタビューなので、本当に申し訳ないですが、まずは作品の話をしたいと思います。
小島びじゅつ室「竈神 Hestia展」に私が伺った初日や最終日で、他の人が原井さんの「画面の切り取り方」とか「光のとらえ方」について話しているのを聞いて、そうかと感じた部分が多くありました。
確かにこれまで見た絵画とは違う、人や風景を「そう切り取るのか」とか、おぼろげに描くつまり「光をどうとらえるか」とか、原井さんの作品は気になりました。
《なごりおしい帰宅》227.0×190.0cm Oil on canvas 1993 撮影:早川宏一 |
原井
僕は絵画出身だからということもあるけど、もののとらえかたが絵画から来ているんです。
絵画は彫刻にあるような「触る」という要素はないし、視覚芸術というか「見るもの」だと思うんです。
例えばデッサンは、明暗をとらえること、つまり光に付随するような練習をすることです。
だから僕が光について話すとか、光をテーマにするとか、という以前の前提として「光」というものは既に絵画にある、存在しているんです。
それをあえて口に出して言うのもいやらしい、鼻につく、という受け止められ方をする可能性もあります。
藤田
確かに改めて「絵画にとって光は」みたいな説明をされたら、「そんなの分かってるよ!」と言いたくなるかもしれない。
原井
僕は大学院の博士課程研究発表展で「光のかけら」という作品を発表しました。
ショーケースの中に、描いたキャンバスを並べるのではなく、山のように盛ったインスタレーションのように展示しました。
そのとき、ラ=トゥール、フェルメールとか、モネ、レンブラントといった「光の画家」を引用し、「光のかけら」と称したんです。
藤田
そういう巨匠たちと並ぶと、すごそうに聞こえますね。
原井
しかし、自分がそこに並びたくて「光のかけらプロジェクト」を始めたわけではありません。
光を扱った絵画や画家が既にいて、たまたま僕も光をテーマにした、というだけです。
藤田
それからずっと、「光」にこだわってきてるんですね。
原井
結局、光をテーマにずっと制作してきて今・・・長くなりましたね。
心地よさだけでやっているつもりはないんです。
僕にもいろんな可能性がありそうなのに、たぶん不器用なので、自分ができること、この表現でとどまっているのが現実なのかもしれません。
藤田
何か答えを探しているんでしょうか?
原井
技法でも、スタイルでも、表現でも、さまざまな問題を取り組もう、とはしているんです。
でも、落ち着きが悪くて、ああでもない、こうでもない、と手が重なって行くんです。
そして結局、筆を置くとき、同じ「光」をテーマにした作品になってしまうんですよね。
藤田
納得する場所、落ちどころは一緒、ということでしょうか。 |