toppeople[植松琢磨インタビュー]
植松琢麿インタビュー
 

会社員から美術家へ転職


藤田
植松さん、いわゆる芸大や美大は行かなかったんですね。

植松
そうですね。
大学に入る時は、アーティストになるとは思ってなかったので。
また、芸大や美大を出ていないアーティストは多いじゃないですか。もし僕が大学を出てアーティストになる、という選択肢を考えたとき、芸大に入って
なくてもなれるだろうという思いもありました。

藤田
それで卒業して、出版社で働かれて、アーティストになろう!と思ったんですね。

植松
出版社勤務時代に、美術欄を担当していました。
取材したアーティストの姿に刺激を受け、アーティストになろう!という気持ちを後押しされた部分もあるかもしれない。

藤田
特に関西のアーティストは濃そうですもんね(笑)。
今もそうですけど、時期的に、つまり2000年代入ってからって、例えば京都市立芸術大学を出た人たち、みたいな言われ方で「関西の若手作家が面白い」と言われ始めた時期でしたよね。
そういうときに「行っておけばよかった」って、ならなかったですか?

植松
特にコンプレックスは感じたことないのですが、大学つながりで美術の友達が多かったり、展覧会があったりっていうのは、うらやましいかもしれません。

ただ、行ったことないので、隣の芝生は青いだけかもしれないです(笑)。

藤田
私も美大ではないので、人のつながりって自分で開拓しないといけないのが大変でした。
植松さんの場合、どうやって発表する場を見つけたり、人がつながりましたか?

植松
当たり前ですが、展覧会をするたびに、いろいろな人とつながっていきました。


藤田
最初って、どうやって発表したんですか?

植松
まだ会社員だったころの話ですが、会社の近くに信濃橋画廊という、いわゆる老舗の貸画廊があって。
その頃は、福岡道雄さん、松井智惠さん、松井紫朗さんという人たちが展示していて、よく見に行っていました。
中ハシ克シゲさんと奈良美智さんのふたり展のときの犬のドローイング作品だったり、歴史的なお宝や資料もいっぱいあって、わくわくしながら見ていた記憶があります。
それから、僕もそこでやりたいなあって、ファイルを持って行って、展覧会に。
2000年くらいだったのですが、今みたいにコマーシャルギャラリーも多くなかったころです。


藤田
なるほどねー。たしかに2000年頃に比べて現在は、コマーシャルギャラリーが増えたり、と状況はだいぶ違ってきましたよね。
 
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