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寺島みどりインタビュー


苦悩の連続の日々


藤田
え? 2003 年ですか?

寺島
大学の4回生のときに、一度絵を描くのをやめたんです。
それまでは油画科というところに在籍していたこともあって描いていたのですが、絵画というのは一体何なのかどんどん分からなくなってしまったんですね。
どういう目的で絵を描いているか、今はある程度頭の中で整理がついていますが、当時は自分が絵を描く目的も意味も分からなかったんです。私が描かなくても誰かが描くだろうと思ってましたし。そんな状態で絵に向かうことはできなかった。それで、言葉やコンセプトで作り上げていくことのできるインスタレーションや写真を自分の表現技法として選ぶようになっていきました。

《ゲリラ 2000》1999 年  

藤田
これは何ですか?

寺島
「ゲリラ2000」という、スライドプロジェクターを使った移動型インスタレーションというか、パフォーマンスといったらいいのか......。外に走ってる車や駅前の壁、ホテルの駐車場に、こんな風な映像を映していたんです。
走っている車の中から路上や建物、前の車のバックに映し出したこともありました。ちょうど1999年の暮れ、大学院も修了し働き始めて1年くらいのころです。非常勤講師をしていた学校の学生や知り合いに声をかけ、7人くらいのチームを組んで夜な夜な京都のあちこちに出没していました。


藤田
いたずら、みたいですね。適当に投影しているわけですよね?

寺島
はい、適当にどこにでも。
あとこれは「チラシを適当にどこかへ置いて下さい」ということをやって、いろいろなものにはさんだり、放置したりしていました。これは京都だけでなく、海外旅行へ行く人にも頼んでやってもらいました。映像記録もあるのですが、人の反応やこれをすることによって変化する環境が面白いです。
ただ、これが本当に自分のやりたいことだったかというとそうでもなく、その場限りのようなもので発展はしていきませんでした。ずっと後になり絵を描くようになってからですが、この頃の作品資料を見て「思いつきアート」と呼んだひとがいました。まさにその通りだったと思います。
そんな状況をどうにかしたいと悩んではいました。でもフルタイムで働き始めたこともあってじっくり制作に向かう時間も体力もなかったですね。悶々とした日々だったように思います。
表現することと繋がっていたいという思いだけは強くて、職場近くのギャラリーくらいは見に行くようにしていました。見るものを選んでいる余裕もなく、ただ時間があるときに覗くだけだったんですが、あるとき気づいたんです、「私が一番共感できるのは絵画なんじゃないか」って。感想がたくさん思い浮かぶもの、これはこういうことなんじゃないかなと作家の気持ちになれるものは、写真やインスタレーション、彫刻、陶芸よりも、絵画が一番だった。
この気付きは最初は小さいものでしたが、どんどん大きくなっていき、最終的に「絵画は難しい。だけど追究するなら絵画しかない」と決めたんです。

藤田
なるほど。

寺島
やるんだったら真剣にやらなければならないので、会社を辞めて制作する時間をつくりました。

藤田
ということは、5年ぶりとかに絵を描いたのですか?

寺島
大学院のときはまったく描けなかったし、修了してからも描こうとしましたが、画面が真っ白か真っ黒になってしまって途中で放り出していました。
そういう時期を入れると5、6年ぶりですね。


《望郷 | Longing for Home》 97x130.3cm | oil oncanvas | 2002

藤田
これは絵なんですか?

寺島
絵です。ただ、筆と絵具を使って描いているのではなく、左官屋さんみたいに石膏に絵具を混ぜてペインティングナイフで塗る、適当なところで削る、塗る、削る、を繰り返してます。


藤田
何かを見て描くというのではなく、塗って削るだけ、ってことですか。

寺島
塗って削るの繰り返しだけですね。
「絵画を追究しよう」と決めたのはいいのですが、何がなんだか分からないのはほとんど学生時代と同じままでした。いわゆる「描く」ということもやってみたけれど、どうしても納得いかず消してしまう。結局、このときの自分にできたことは「塗って、削る」ことだけだったんだと思います。自分の納得する部分、気持ちいい部分がなかなかみつからなかったので、「塗って、削る」ことを繰り返していたんだと思います。

 
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