《惑星#54》
「インクジェット」にこだわる理由
丹原
《惑星》のお話が出ましたが、真っ暗な中に灯りがぽつんとありますよね。どのように撮影されてるんですか?山に登って撮影されているんですかね?
杉浦
いえ、田んぼや道の真ん中に立って撮影しています。全て。夜10時以降はあんな感じですからね。車もそんなに通らないですから。《なんにもないところへ導くもの》は地元に「ブックスてらさか」という本屋さんがあるんですけど、その裏の田んぼの上で撮ってました。
丹原
そうなんですね。
杉浦さんの作品てインクジェットで出力されてますが、インクジェットにこだわる理由って何でしょうか?
《なんにもないところへ導くもの#1》
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杉浦
二つあって。一つは黒の出方がしっくりくるんです。印画紙のように光を感光させて作るのではなく、紙の上にインクがのるのでそもそも手法が根本からして違うんです。黒に限って話すと、印画紙だとギュッとこう重い黒になる。かたい黒。でピグメントプリント(インクジェット)にするとやわらかい黒になって、撮影時の夜の空気感をはらむことができます。そっちの方がしっくりくるというか。やっぱり印画紙だと違うんですよね、質感が。うまく言えないけど。
印画紙は展示しても黒い部分にライトが当たってぎらつくわけです。それが非常に嫌だし、展示ではアクリルやガラスに遮られない「生」(印刷面がむき出し)の状態で見せたいので、できれば視線がはね返るんじゃなくて吸い込まれていくような感じにしたいんです。
もう一つの理由が、これは完全に僕の個人的な印象の問題なんですけど、保守的な人が声高に叫ぶライカで撮った写真の優位性だとかゼラチンシルバープリント至上主義とかそういう内容とは関係ない瑣末な部分での権威的なところが嫌だなあと思っていて。
写真は生まれてまだ150年しか経ってないんだから、可能性についてもっと挑戦しないと、開拓しないと。なんかもっとチャレンジするべきだろうと。写真だからこそ新しいことをやれるんだと思うんですけど。保守派からすると、インクジェットなんていうのは写真じゃねえしって一段下に見られてて。でも、それでいいんです。そうやって蔑視されると「絶対印画紙なんか使わねえぞ」って新しい手法にチャレンジする勇気が湧きますからね(笑)。
丹原
今回展示されていた《森》、《惑星》、《なんにもないところへ導くもの》は共通したコンセプトがあるのでしょうか?
杉浦
そうですね。人間と自然の関係というはずっと思っていて。当然、人間が自然を支配しているじゃないですか、地球上で一番強いじゃないですか。でも《惑星》の写真を見て解るように、人間の人工的な灯りって夜の地方ではちょっとしかないんですよ。あとの黒い部分は全て人間の支配(光)が行き届いてないところですよね。灯りが照らしきれてない。
(西遊記で)孫悟空はお釈迦様の手の上であちこち行っても結局手の上から抜け出せずに、自分の力の小ささを知るという有名なエピソードがありますよね。そういうことなんじゃないのかなと思うんですよ。自然を、この世界を人間が征服したと思っていても実はコントロールできてない部分がほとんどで、それが対岸にあるんじゃなくて我々自体でさえその一部でしかないという…。
《森》については、僕の住んでいる地域でかつて農業が盛んで、みんな自分の田んぼでお米を作っててそれが大きな収入であり、糧だったんです。今は全然違いますけどね。その当時の森っていうのは陽や雨、気温など作物にとって非常に重要な天候を司る象徴であり、神様だったんですよね。
もちろん人々は自分の命と密接に関係する糧そのものをコントロールする存在である森に対して非常に強い畏れを感じていたはずです。畏怖という感情ですよね。そのとき人々が見ていた森や山に対する眼差しとシンクロしたいなと思って。人工的な灯りがあるとだめだと思ったから夜、暗い森へ行って当時彼らが見た風景と同じものを見てみようと試みた作品です。
《森#23》 |
丹原
2008年の岡山での展示で「私は森を、美しいとは思わない。」というタイトルの展示がありましたよね。
杉浦
だって、神様ですから。美しいも何もないじゃないですか、当時の人にとって。今は誰もがエコロジーを推奨してて「エコ」、「ロハス」、「CO2削減」などの口当たりのいいスローガンのもと、自然=良い、100%の善じゃないですか。でも時に自然っていうのは天災でもって人の命をあっけないほどに奪ってしまうわけでしょう。それも「100%善ですよ」っていえるのかなあ。結局そんなの人間側の都合でしかないし、僕は個人的に日本人のメンタリティの深い部分では合致しないはずだと思っています。
だから自然は「良い」「悪い」だけの単純な次元で語れる問題じゃないんじゃないのってことです。もっと人間の善悪を超越したところに自然はあるっていうことです。だから「癒される」とか「キレイ」とか一面的な自然賛美は違うんじゃないかなっていう思いがありました。
丹原
《なんにもないところへ導くもの》についてはどうですか?作品を見ていると、作品と向かい合う距離感がとても気になったのですが。遠くでは何となく収まりがいいように見えますが、近づけば近づくほどぼやけてきますよね。
杉浦
近づくと見えないようにしてあるんですよ。近づけば近づくほどつかもうとしていた作品の手がかりが見えなくなります。逆に離れれば離れるほど何があるのかが見えやすいようになっています。すごく向こうからボーっと、なんかあるなーって、どんどん近づいていって、もっと見たい、もっと見たいって求めれば求めるほど見えないっていうのが重要というか…。今までとは明らかに一線を画しているし、指向しているベクトルそのものが全く違うんです。この作品はちょっと…危ないんですよ。
丹原
危ないとは?
杉浦
まず、手がかりがないんですよ。これ被写体が何か分らないですよね。《森》だって一見、暗いけどよく見れば判ります。この作品は一般的な人にとっては「は?」って感じじゃないです
か。空っていわれても、うん空だけど・・・「それで?」っていう。
アートって何だろうって最近強く思いはじめていて。きっと何かを伝えなきゃだめなんです。僕は広告のスタジオで基礎を学んだ人間ですから、写真は視覚を通して何か情報を伝える必要があるという前提があるんです。ビールの広告だったらそのビールを飲みたいと思わせなきゃだめだし。「何も伝えない写真」て、写真たりえるのかなと。何も情報がない写真は果たして写真たりえるのかと思っていて。だからそれは人間と自然とかうんぬんよりも・・・何なんだろう・・・なんなんだろうってことですよ。これはなんなんだ(笑)。
もちろんコンセプトはあります。制作時に禅の本を読んでいて大きなヒントを与えてくれました。禅宗の開祖である達磨に弟子が「どうすればあなたのように境地に達するのか」と訊いた。そうすると達磨は「俺は禅という宗派を布教したり、発展させたいわけではないんだ」と言う。何がしたいかというとただ、「空(クウ)になりたい」と。「空」とは達磨が非常に重要視した「無」という概念のことです。それを分かりやすく表すものとして梁の武帝とのやりとりが有名です。いわゆる「色即是空」というやつですね。心が何ものにもとらわれていない「無」の状態。その「空(クウ)」っていうのは「空(ソラ)」とも関連があった。だから、空を撮ることによって達磨が目指した「空(クウ)」を内包できればと思って…。ただそう思って創ったんですけど・・・自分でもなんなんだ、これは?っていうのが大きいですね。処理しきれてない、自分が。これは一体何なんだろうって未だに思ってます。
でもそれは当然かもしれません。何らかの主張を帯びた時点で、この作品の持つコンセプトが消滅するというややこしいものだからです。分かりやすくいうと、この作品はコンセプトの放棄こそが唯一のコンセプトなのです。つまり、「空(クウ)」(無)とは言葉であり概念には違いないのですが、それが言葉や概念として成立した瞬間に「空(クウ)」(無)は失われてしまうんです。意味にとらわれてしまっているから。じゃあ、一体どうしたらいいんだよって話ですよね(笑)。これが俗に言う禅問答ってやつですね。
《なんにもないところへ導くもの》を撮る必然はあったんです。いま、僕が創るべき作品はこれしかなかったんです。だけどそれが出来上がっていざ展示してみると、当初の想像を遥かに超えちゃってて…。「良い」「悪い」の評価の外にあるんですよね。「良い」「悪い」、写真が「上手い」「下手」関係ない。だって既存の評価それ自体を逆照射させるような作品ですから。しかも僕の作品というカテゴライズさえ本質的には何の意味もありません。初めてそういう境地に入ったなというか。ただ、正直そこまでいっちゃうことは狙ってはなかった。でも写っちゃった。これが写真の怖ろしいところなんですけど。 |