《なんにもないところへ導くもの#32》
新たな価値の提案するものと何も伝えないもの
Keita Sugiura Interview
岡山県立美術館で「第一回I氏賞受賞作家展 ふたつのセンス」という展示が開催された。I氏賞というのは岡山県にゆかりのある新進気鋭の美術作家に贈呈される賞である。展示はそのI氏賞2008年大賞受賞者の大西伸明と、2009年大賞受賞者の杉浦慶太の二人展である。
大西伸明の作品は、透明樹脂を用い本物そっくりに作られた日用品。電球やぼろぼろの椅子、さびかけた脚立など年季が入ったものが並ぶ。しかしそのモノの端々は透明で透けており、そこには有るのにまるで現実ではなく記憶の中に存在しているようである。
杉浦慶太の作品は、一見何も描かれていない白い紙のように見える。しかし、じっと眺めていると画面の中に淡い色合いが存在していることに気付く。現実の空を撮影した作品だが、画面の中には何もないように見え、存在しているのか、はたまた何も存在しないのか、考えれば考えるほどつかめない作品である。
展示のサブタイトルとしてつけられた「存在と不在」は、まさにこの二人のアーティストの作風にぴったりである。
今回は2009年大賞受賞者の杉浦慶太さんにインタビューの了解をいただいた。果たして彼の作品の「存在と不在」の謎をつかむことはできるのだろうか。
INTERVIEWER 丹原志乃
逃げてきたものと向かい合うことで見えてきたもの
丹原
略歴で、教師を目指して大学に行かれたと書かれていたのを拝見したことがあるのですが、どういうきっかけで写真を撮りはじめたのですか?
杉浦
基本的に教師になるために大学に行ったので。中学校の国語の先生になろうと思ってました。なにかサークルに入ろうと思って、写真部に入ったわけです。そこで自分で写真を撮って、フィルムを現像して、印画紙にプリントするっていう基本的なプロセスを学ぶんです。
その前はカメラを玩具にして、遊びでシャッターを押していました。多分、小学校4年生くらいからだと思うんですけど。自分の家が造園業をやっていて、ああいう職業っていうのは、工事をしたときに現場写真として役所に提出するための写真に撮るんですよ。そのため廉価版のカメラが家にゴロゴロあって。
で、安いカメラなんで僕とかが別にさわってもいいわけです。
それでチャージ巻き上げて、シャッター押すっていうのがなぜか面白くて、ファインダーを覗きながら遊びとしてやってました。そのうちフィルムを自分で買って撮るようになってっていう。まあ遊びですからね、いろいろ撮ってましたよ。
でも、本格的に始めたのは大学に入ってからです。
丹原
大学で写真部に入られてたんですね!
杉浦
そうですね。いじめられたんですけどね、写真部で。
丹原
どういういじめにあったんですか?
杉浦
批評したわけですよ。写真がぬるいというか、もうちょっとこうした方がいいんじゃないかって先輩に対して言ったら、お前生意気だ!みたいな。大変でしたよ。写真部に入って1年経ったぐらいですかね。あまりにそれが荒木経惟のフェイクだったんですよ。
「さっちん」みたく、子どもの無邪気さを撮るっていう。でもその子どもが本当に無邪気とは限らないじゃないですか。大人側の願望込みの視点でしかない。僕なんかには言われたくはないでしょうけど、「さっちん」とは時代も違うんだし、若いんだからもっと違うことしたらっていう話をしたら、なんかプライドに障ったみたいで。
丹原
それでも写真部を4年間ずっと続けられたんですか?
杉浦
いえ、クビになりました。先輩に頭突きをお見舞いしちゃったんです。陰湿なイジメに耐えかねて「ふざけんな」って僕が。
さすがに手を出すのはよくないだろうと思って…そしたら「お前クビ!」ってやっぱり(笑)。
丹原
すごいですね(笑)
写真部をクビになって、それでも写真続けていこうって思われたんですね?
杉浦
それがほんとに不思議ですね。なぜか好きだったんです。卒業の時に学校の先生の免許持ってたからそのまま試験受けて先生になるか、写真をやるかの決断をしました。
極端に言えばエサは毎日確保されるけど誰かの飼い犬になるか、エサは毎日確保できないけど自分で行動できる野良犬になるかどっちか迷って後者を選んだってことです。
若さゆえの決断でした。22・23歳ですから。自分が世界の中心だと思える傲慢さと、根拠のない自信だけはあって「ここは行っとけ!」っていう勢いだけですね。
そのあと写真のスタジオで働きました。東京有明の広告専門のABCスタジオっていうところなんですけど、そこで約3年間ぐらい修行して撮影の基礎をみっちり学びました。
丹原
その選んだ後者で、挫折はありました?
杉浦
そうですね、挫折しかなかったですね。3年間東京にいたけど、その時はほんとに苦しかったんですよ。
誰も作品を良いって言ってくれなかったし、写真をほめられたことも一度もなかったし。ひとつぼ展とか写真新世紀なんかのコンペにたくさん応募しても見事に全部落ちてたし、全然駄目でした。鳴かず飛ばずとはあのことです。
丹原
その当時の写真のスタイルは今と違うものなんですか?
杉浦
全然違います。森山大道風の35mmのカメラを使ってわざと画面を荒くして、主にホームレスや裏路地など街の雑踏みたいなのを撮ってましたね。
丹原
そこから現在の作品にたどり着くまでどんな経由があったのでしょうか?
杉浦
自分の家の商売が不況のあおりで縮小するっていうのを聞いて。僕はこれでも一応長男ですから親が心配になって…主に精神的な面で。僕も写真が全然ダメだったから、東京に居ても居なくても良いなって。誰にも求められてなかったから。だから帰ろうと思って地元である岡山に帰ったんです。その時に《惑星》っていうシリーズを撮り始めるんです。
今までは自分の出自である田舎というものから逃げてたんですよ、そんなの格好悪いと思ってたから。ただ無根拠に東京に憧れてた。それで、田舎へ帰らざるをえなくなった時に、あえて自虐的に自分の嫌なものを撮ってみようと思ってですね。自分の傷口に塩を塗るようなことしたかったんです(笑)。それで撮ってみようと。で、ファインダー覗いたらすごく綺麗だったんですよ。真っ暗な中にぽつぽつと灯りがあって。それから、今のスタイルにちょっとずつ移行してきました。全ては《惑星》の最初のカットがきっかけでしたね。
結局それまでは誰かのスタイルのモノマネでしかなかった。初めて自分の育った、逃げてきた環境に向かい合うことで、自分にしか撮れない核のようなものを発見したっていう感覚はあります。
丹原
《惑星》シリーズを制作された岡山県津山市、現在杉浦さんはこの津山を活動拠点にされていますが、これからも津山で活動していくのですか?
杉浦
そうですね。方向性としてはそうでしょうね。というのも、津山ってほんと、どこにでもある都市というか。人口や街の規模などああいうところは日本全国いっぱいあると思うんです。つまり、津山で撮ることは津山だけじゃなくて、実は他都市とも交換可能だと思っています。本当はどこだっていいはずですよ、極論。
津山で撮りますけど、津山だけの個性を出そうというんじゃない。津山という個別具体的な場所に依拠しているはずなのに、他の都市の人間にもどこかで見たことのある光景だと思うような共通項を見出したいと思っています。
それを見出し、その中にもし「美」が潜んでいるのならば、それをドメスティックなレベルで多くの人と分かち合うことできるのではないかと考えているからです。本来ならば、それがこの国の本当のアートだと思っていますし。
丹原
確かに《惑星#54》のガソリンスタンドなんかはそうですよね。
杉浦
地方都市のはずれにはああいうの、よくあると思いますよ。 |