《mado no katachi》lithograph 68x112cm 1997
その後の制作と発表
藤田
卒業して、どうしたのですか。
坂井
この大阪芸術大学で副手を3年間しながら、リトグラフの制作を続けていました。初個展は96年、24歳のとき、番画廊でしました。
藤田
私たち70年代前半生まれは、作家はコマーシャルギャラリーがついてない人が多い世代です。
番画廊はどのような基準で選ばれたのですか。
坂井
大学時代にいろんなアルバイトをした話はしましたが、番画廊という大阪の老舗画廊で搬入・搬出の手伝いをしていました。
番画廊以外の、大阪にあるギャラリーも見て回りましたし、番画廊に届く全国の美術館や画廊のDM、カタログに目を通したり、雑誌『版画芸術』のバックナンバーを読んだりもしました。
そうやって絵の見方を知りましたし、毎回300人もの方が見に来る画廊でしたから、美術関係者の知り合いも増えました。
藤田
コマーシャルギャラリーではないので、売れると励みになりますね。それからは?
坂井
東京でも個展をしました。
見せる場所が違うと、見る人も違う、東京だとマーケットもある、ということを思った以上に実感しました。
大阪で作品を発表したときは何も言われないのに、東京で見せると「なぜ四角なのか」「コンセプトは?」と聞かれるのです。
2012年の銀座・Oギャラリー展示風景
版画家としての生活
坂井
アトリエを借りたり、どうしよう、バイトするのは嫌だな、と思っていたとき、妹が出産したんです。
病院にお見舞い行ったとき、殺風景な壁に絵を飾っていたら、他の妊婦さんに「欲しいわ」と言われて、持っている作品を全部そこで売ったんです。
藤田
すごい!
坂井
それでその1年は食べて行けました。
次の年からは、知り合いの画家やイラストレーターの方の作品をリトグラフで刷る仕事をやってました。
そんなことをしていたら、バルセロナに来ないか、と誘ってくれた大学の先輩がいたのです。
藤田
そうやってバルセロナに行くようになったのですか!
坂井
大学の先輩からジャウマさんというスペイン人アーティストを紹介してもらいました。
彼は版画だけでなくペインティングや立体もつくる、すごい人だったんです。
藤田
スペイン、あるいはヨーロッパって違いますか。
坂井
はい、例えば展覧会オープニングの日は夜9時ごろから12時ごろまで、子どもからおじいさんおばあさん含めた家族の人、近所の人、いろんな人がやってきて皆でワインを飲みながら楽しい時間を過ごします。
その前に作品は売れていて、アートとの関わり方がまったく違うことを知りました。
藤田
それはすごい!
坂井
ジャウマさんは「言葉も大事だけど、君が何をしている人か?ということが一番大事」と教えてくれました。
「ここに君がいるのは、作品をつくっているからだよ」と言われると、僕もアーティストであることを改めて自覚したりしました。
あとヨーロッパ最大のアートフェアに連れて行ってもらって、売ることや売れている作家を真近に見たことも衝撃でした。
20世紀にピカソやミロといった巨匠を輩出している土地柄だこそ日本と違う、アートやアーティストという考え方をいろいろ知ることができたんです。
藤田
作品制作にも影響がありましたか。
坂井
向こうではチューブの絵具ではなく、いわゆるピグメント、顔料、色の粉で売っているんです。
それを混ぜ合わせること、水の量でも色が違うし、色の強さも違う。
色のきらめきとか、版とか考え直すことができました。
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