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“On”の期間中、写真に写ったものに対する観客の反応は、様々な形で現れる。
何枚かの写真を見ていくと、単に「シールを貼る」という反復的な行為であっても、様々な差異があることに気づくだろう。
故意に人物の顔の上に貼って見えなくしたり、逆に顔の部分は避けたりと、イメージを意識して貼られていたシール。
次第に、シールを貼るという行為自体が目的化し、観客はシール貼りに没入していくようになる。シールをライン状につなげて貼ったり、並べて花のかたちにしたり。シールとイメージが、だんだんズレていくのだ。
そこで観客は、一つのイメージをめぐって撮影者と共有関係を取り結び、あるいは乖離を増幅させていくことになる。また、既にシールが貼られた写真に重ね貼りすることで、見知らぬ観客同士の間にも共有関係が成立する。
しかし、こうしたイメージの共有とイメージへの介入という行為は、「Flames−“On”/“Out”−」というプロジェクトの内部でのみ起こりうる特異な事態なのだろうか?いや我々は、デジタルな環境の中で、こうした行為を日常的に経験しているのではないだろうか?
例えば、携帯の写メールを介した画像の共有。二次加工。ネット上にあふれる、誰が撮ったのか定かでない画像を加工することも簡単だ。また、写真の上に文字やフレームを組み合わせて遊ぶプリクラ。そこでは、画像の共有と介入が、コミュニケーションの一種として成立している。
「Flames−“On”/“Out”−」は、そうしたコミュニケーションを作品成立に不可欠な要素として組み込むことで、デジタル時代のイメージ感覚をも問題化していると読み取ることができる。他人の撮った画像を簡単に共有でき、書き込みや改変が可能であるという自由さのある反面、画像の所有権の問題やイメージへの一方的な介入という暴力性もつきまとう。本プロジェクトは、フィルムカメラで撮影してもらう、シールを貼る/剥がすというアナログな一連のプロセスでもって、逆説的に、デジタルな画像を取り巻く身近な問題圏に接近しているのである。
その一方で、Yoda自身は、写真の物質性に興味があるとも語っている。
実は“On”の期間に用意した写真は、複数の写真店に現像を頼んだものが混ぜられており、店によって仕上がりの色合いが異なる点が面白いという。
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前期展に来られなかった観客のために、後期展では、"ON"の会場風景がプロジェクションされていた。
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デジタルな、故に共有や加工が容易になった現代のイメージ感覚に対して問題提起をしつつ、アナログな物質としての写真のあり方にも密かに言及するYoda。旅行や行事の際の記念撮影だけでなく、携帯電話の写メールによる画像の共有やプリクラなど、「写真を撮る」ことが一つのコミュニケーションとして成立している現代日本。そこで展開される「Flames−“On”/“Out”−」は、観客を巻き込んだ、「見ること」をめぐる問いであり、一つの思考実験でもあるのだ。
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