topreviews[Yoda「Flames」“On”/“Out”/京都]
Yoda「Flames」“On”/“Out”
共有と介入
―丸いシールが穿つ、見ることをめぐる問い

TEXT 高嶋慈

何の変哲もないスナップ写真。

大学構内とおぼしき建物、教室、ピースサインをする若者たち、ひとけのない通路。

一枚一枚には撮影者の名前も、タイトルも示されていない。

あるべきキャプションの代わりのように、写真の横に貼られているのは、色とりどりの丸いシールのシートである。

観客は、用意されたシートから、好きな色や大きさのシールを選び、展示された写真に好きなように貼ることができる。何枚でも。何十枚でも。あるいは、貼らずにただ眺めているだけでもいい。

 
“On”/“Out”と二期に分かれる展覧会「Flames」のうち、前期展“On”では、観客の手によって刻々と展示状況が改変され、特に何かの物語を紡ぎ出す訳でもない、ありふれたスナップ写真が奇怪なものへと変貌していく。表面を覆うシールの集積は、私より以前にこの写真を見た誰かの視線の痕跡であるが、その彼(彼女)が見たものは、私の視線からはシールという物質によって隠されている。親指大のシールの下にある人物の顔は微笑んでいるのか、無表情なのか。赤や青のシールを前に、ただ想像するしかない。

そして実は用意されたスナップ写真自体も、作家のYoda本人が撮影したものではなく、展覧会場である京都精華大学の構内で、通りがかりの人に一眼レフのフィルムカメラを渡し、一人一回の撮影を依頼したものである。撮影する対象は人でも物でもよく、好きに撮ってもらう。写真の撮影から、シールを貼ることまで、「作品」を成立させるプロセスそのものを、Yodaは全て観客に委ねているのだ。

匿名の誰かによってフレーミングされ、さらに別の誰かの手でシールを貼られた写真たち。しかもその状態は前期展の終了まで一定不変ではなく、後から来る観客によってさらにシールが重ね貼りされ、どんどん上書きされていく。複数の観
客によって、二重、三重の介入を受けたイメージ―展覧会のタイトルが「Flames」と複数形になっているのは、そのためだ。
そこでイメージに相対する者は、匿名の、しかも複数の誰かの視線を「共有」しているのだろうか?それとも、全てを見たいという欲望は、シールという物質の介入によって拒絶されているのだろうか?

 
このジレンマは、後期展”Out”で反転され、一つの解消を迎える。

前期展“On”の終了後、写真は白いペンキで塗りつぶされ、シールが剥がされた状態で再び展示されるのだ。ギャラリーの壁と同化したかのような、真っ白の画面には、丸く切り取られたイメージが顔をのぞかせる。一見すると、パソコンで加工した画像のようにも見える。白い画面に浮かぶ、丸いイメージの連なりがもたらす浮遊感。

後期展”Out”では、展示方法や会場の様子も一転する。

“On”では、サイズもバラバラな写真が壁だけでなく床にもランダムに配置され、シールのカラフルな色彩や、シール貼りに参加するという楽しげな雰囲気も加わって、会場は雑然とした感じに包まれていた。また、床に無造作に置かれた写真は、「もの」としての存在を主張し、観客はシールを貼ろうとして表面に触れることで、写真が「そこにある」ということを否応なく意識させられる。
ところが”Out”では写真がグリッド状に規則正しく配され、整然とした展示が出迎える。観客は、静かに作品と対峙し、写真に写されたイメージ(の断片)により集中するようになる。「もの」として存在した写真は再び、眺められる対象へと回収されていく。しかも、白一色に塗りつぶされて。
なぜ、「白く」塗るのか。

「何もない」ことを示す色が、なぜ「白」という色なのか。

そう疑問に思った時、今まで特に意識していなかったギャラリーの白い壁が、逆説的に物質感を伴ったものとして存在し始める。ホワイトキューブの中では「透明」な媒体としてある「白」という色の存在についても、Yodaは意識的に言及しているのだ。

こうした展示空間の物理性と制度性、両者に対する言及は、京都精華大学造形学科立体造形コース出身のYodaが持っている、空間への強い意識に基づいている。

立体作品やインスタレーションを制作するかたわら、Yodaはこれまでも、観客を巻き込んだ参加型の試みを行ってきた。
2007年の秋から約半年間留学したフィンランドでは、「Red Point Project」と題し、Yoda自身が用意した学級写真や布などにシールを自由に貼ってもらう展示を初めて行った。

約一年後、2008年の秋には、他人に「なんとなく一枚、写真をとってもらう」というコンセプトの「Flames」の試みを行う。

二つを合体させた試みは、2009年の春に京都造形芸術大学ギャラリーRAKUでの「Red Point Project」でなされた。これは、他人に撮影してもらった写真や、シールと同じ大きさの枠が用意された方眼用紙、傘やバケツなど日用品をギャラリー内に持ち込み、前期展“On”では観客に赤いシールを貼ってもらい、後期展“Out”では白く塗りつぶした後、シールを剥がして再び展示したもので、今回とほぼ同じフォーマットである。

異なる点は、方眼用紙や日用品も展示したことと、赤いシールのみが用意されていたことである。
「赤い」シールを用いた理由は、Yodaによると、画廊の展示で売約済みの印として貼られるシールからヒントを得たものだという。本来は、その作品が既に誰かの所有品であることを示す赤いシールが作品内部へと侵入し、作品を成立させる一要素として組み込まれた訳だ。

ここから導き出されるのは「所有」というキーワードである。ただしYodaが問題にするのは、物質的な所有ではなく、イメージという非物質的なものの所有である。

そもそも写真という装置の誕生は、目に写る対象をことごとく保存し、所有したいという我々の欲望に根ざしている。今やカメラ付き携帯電話の普及で、日常的に画像を撮り、保存し、持ち運び、友達や家族と共有することさえ簡単になり、コミュニケーションの一つとして成立している。だからこそ、そうした我々の日常的な行為は何なのか―「Flames」の試みは、“On”/“Out”の両面を通して、そう問いかける。

それ自体はごくありふれた風景や人物のイメージの中に侵入した、シールという異物。それは同時に、観客の視線という異物である。ここでは視線はイメージを透過するのではなく、写真の表面にびっしりとへばりつき、自己増殖するかのように表面を覆うシールとして物質化されている。

顔の部分だけが隠され、あるいは何が写っているのか判別不可能なほどシールで覆われた写真。そこで明らかになっているのは、対象を保存し、所有したいという我々自身の欲望であり、視線の過剰さや暴力性が、写真の表面を覆うシールの氾濫となって顕現しているのだ。

一方で、剥がされたシールの下から現れるのは、かつてこの写真に注がれた誰かの眼差しの痕跡であり、“Out”で我々はその他者の眼差しを追体験することになる。
ただし、露わになった他者の眼差しは、虫食いのように断片的で、意味を読み取れるような全体像を結ぶことはない。この人物の顔の下には、どんな服を着てどんな身振りをした身体が写っているのか。緑の木々は窓の外の景色なのか、それとも野外で撮ったスナップなのか―白く塗りつぶされた画面を前に、答えは宙吊りにされたままだ。我々は、対象を本当に「見て」いるのか?実は断片的にしか見ていないのではないか?

Yoda は“On”/“Out”のプロセスを通して、全てを写しとり、所有しようとする視線の暴力性を明らかにする一方で、そうした我々の視線の不完全さ、曖昧さをも明らかに示してみせるのだ。

  12 次のページへ

Yoda「Flames」“On”
2009年12月4日〜7日

“Out”
2009年12月10日〜13日
京都精華大学ギャラリーフロール(京都市左京区)


作家プロフィール
Yoda (豊田 智子 Satoko Toyoda)
1986   大阪府生まれ
2005   京都精華大学入学/芸術学部造形学科 立体造形コース
2007.9
〜2008.1
  トゥルクアーツアカデミー(フィンランド)/ファインアート 精華大学交換留学プログラム
個展
2007.11   《hanging》/Turku Arts Academy Finland
2008.01   《Red Point Project》/KOYSIRATA Gallery(Turku Arts Academy) Finland
2009.04   《Red Point Project−On/Out−》/ギャラリーRAKU 京都造形芸術大学
グループ展
2008.02   《ズレ》 立体3回コース合同「ボルボックス」展 /むろまちアートギャラリー
2008.04   《カモ》《ムクドリ》野外展2008/京都精華大学各所

 
著者のプロフィールや、近況など。

高嶋慈(たかしまめぐみ)

1983 年大阪府生まれ。

大学院で近現代美術史を学びつつ、美術館でのインターンを通して実務を経験中。





topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.