top\reviews[「医療と芸術」展/広島]
「医療と芸術」展


福田恵
「永遠の庭/eternal garden」
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福田恵《365 days,2.8g/49.2kg》、《永遠の庭 / eternal garden》
《永遠の庭》と題された作品は、建物に囲まれた中庭に、たくさんの造花を植えた作品。色とりどりの花は、窓から一瞥するだけでは造花には見えず、近づいてみてはじめてそれと気づく。華やかさの裏にどこか残酷さを匂わせる。

三木俊治《Future-Telling Table》
入院棟「みどりの広場」のテーブルの上に黒御影石の石板を展示。びっしりと言葉が刻まれてはいるものの、その解読はできない。過去から現在へ、すくい取ることのできない声明があるのなら、現在から未来への声明も虚しく無意味な形に退化するのか。しかし、そこには意志の痕跡があり、それは形として残っていく。


水島かなえ
「<生動>あるいは<共有>」
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水島かなえ《〈生動〉あるいは〈共有〉》
長い渡り廊下の窓に、スカーフのようなものがたくさん提げられている。窓が開いているわけでもないのに、少しだけ揺らいでいた。ゆっくりとした空気の流れにたなびいているのだろう。スカーフのようなものは、少しずつ色が変わっていき、そのグラデーションになっている。外の光が柔らかく透けている。

ミノル・カサネ《祈り》
入院棟のデイルームに、白いオルゴールの箱が5つ、それらのオルゴールはチェーンでひとまわり大きな箱につながれている。オルゴールの箱の中には、赤いアルファベットの文字がひとつずつ入っていて、すべてをつなげると「PEACE」という言葉になる。当然、ねじを巻くと音楽がなり、すべてのオルゴールを鳴らすととてもにぎやかになるだろう(まわりに遠慮して2つだけで試してみた)。展示場所がデイルームということもあったのだろうか、なぜか少しほっとした。

Mendel Jonkers《Love Story 2》、《Magic Mirror》
医療スタッフ用のステーションには、応対用のカウンターがあるが、そのカウンターにさりげなく置かれた鏡が作品。ただし、鏡の表面には白い光が円を描いている。もう1つのバージョンでは鏡に星型の光が仕込まれていた。鏡を覗き込むと自分の瞳に丸や星形の光が入っているのが見える。まるでアイドルのブロマイドのようだ。

山崎由美子《時間の記憶プロジェクト 植物 広島 2005年》
バスターミナルの側にある緑地を、四角く切り取るフィールドワークとその記録映像の作品を展示。残念ながら実際に四角く切り取られた緑地がどこにあるのかはわからずじまいだった。あるいは、すっかり元の状態に戻ってしまったのかもしれない。映像でみる限り、切り取られ土が露出した様子は、まるでパッチテストのようでもあり、何処だかわからないまでに回復してしまったのであれば、それが望ましいようにも思えた。

アントニオ・ゴンザレス《PUCA-ALLPA》
葉切り蟻がキノコを栽培するための葉を運んでいる映像作品。一匹の葉切り蟻をカメラが追っている。ただし、その葉には作家によって赤十字が描かれている。その姿はまるで院内を足ばやに移動する医療スタッフのようでもあった。

ヤコブ・シャイブレ《HALIT(岩塩)》
入院棟カンファレンスルームのある長い廊下の一角に、鮮やかな青い布がかけられており、その下には、鏡が置かれている。鏡を覗き込むと、その上には塩水が乾いたような跡。

レベッカ・ホーン・クラス(ベルリン芸術大学)の学生ら12名人による
(この作品は上映時間を逃してしまい見ることができませんでした。説明用のプレートによると、待合室に座って順番を待つ人のために短編映像をいくつも流していたようです。)

近藤博明《生きる力》
人物のポートレート写真と、写真に写っている人物の直筆による「大事にしている言葉(だったと思うが正確にはなんだったか失念してしまった)」の色紙を数組分のセットで展示されていた。例えば「正直」といったような素朴な言葉があった。

佐々木千佳《クムと白い山》
数枚の写真と短い文章によって、「クム」という女性と「白い山」との別れを淡々と絵本のように展開していく。物語の中でクムは、食べ物を贈られることによって回復していく。回復とは、他のものを自分の中に注ぎ込むことによって欠落を補う事であるかもしれない。食べるということが日常的な回復行為であるなら、食べ物を贈られるということは、回復を願うものの気持ちを受けとるということであるだろう。

最後に
この展覧会について、総括的な判断をすることはとても難しい。純粋に美術展として見るには、あまりにもデリケートな問題を含んでいる。その作品に接する人のみならず、まわりの環境や時間帯によっても鑑賞者の反応は千差万別だ。

そうした状況において、病院という「医療」の現場に、美術作品という異物が入ってくることに、拒否反応をおこしたのは、患者や医療スタッフのみならず、それを見に来た健常者の中にもいた。むしろ、私が聞いた限りでは、そうした声のほうが多かったとさえいえる。

とはいえ、「医療と芸術」というテーマに作品の制作動機をすえることは、参加作家の仕事の条件ではない。今回の作品に限って「医療」に寄り添っていったとしても、それは付け焼き刃でしかない。それよりも、作品で表現された個別の意志や思い、物語にこそ、人は美術の可能性を見るのではないだろうか。

普段そこにないものが、病院内のあちこちに設置されている状況に、新鮮さや希望を感じた人たちも少なからずいたという話を聞いている。私自身、もしこれが病院内での展示でなければ一瞥して作品の前を通り過ぎるだろうと思われる作品にも、ふと心を動かされる事があった。そうした経験を「医療と芸術」というテーマへの解答とすることはできないが、多くのヒントを、それぞれの作品や展示状況の中に見ることができた。

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