インスタレーション風景/日本橋高島屋美術画廊X 撮影:富野博則
アートマーケットが隆盛した2000年代、多くの売られている作品にはいくつかの共通点があった。
具象的な形をしているもの、作品の色みが白いもの、溶けているような形状をしているもの。
そういった要素が盛り込まれているものが「流行」となり、山田純嗣の作品もそのひとつに思われた。
いや、私はそのくくりに入れるには「違和感」を感じていた。
その理由を知りたくて、今回インタビューを行った。
Interview 藤田千彩 Chisai Fujita
山田純嗣が名古屋にいる理由
「(09-7) UNICORN IN CAPTIVITY」
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藤田
こんにちは、今日はいろいろ伺いたいと思います。
いきなりですが、山田さんはずっと名古屋にいらっしゃるのですよね?
山田
いいえ、生まれてから小学3年生までは長野で、それから名古屋に引っ越して来ました。
小学4年生のとき以外、担任の先生がたまたま美術の先生だったことで、僕は美術が好きになったのです。
藤田
私が「名古屋なのですか」と聞いたのは、東京以外で活躍している人に話を聞きたい、という主旨でPEELERをしているからです。
どうも日本のアートシーンは、東京中心の話題になってしまいがちですからね。
山田
僕は大学を選ぶとき、東京に行こう、東京の大学だけ受けよう、と思っていたんですよ。
美術科がある高校に行っていたのですが、先生たちの助言で無理やり愛知県立芸術大学を受けさせられたのです。
「とりあえず受けにいくかー」くらいにしか思っていなかったし、案の定受かったんですね。
そして東京の大学を受けたときは、浪人しても東京に住む下宿まで決めていたのですが、結局受からなかった。
学校へ東京で浪人することを報告しに行ったら「来年受かるか分からないのに」とか、いろいろ言われました。
決定的だったのは、先生に「お前は大学生になりたいのか、作家になりたいのか、どっちだ?作家になりたいんだったら、大学なんかさっさと卒業して活動をしたほうがいい」と言われたこと。
僕は愛知に行きました、そのあと東京に出ることもなく。
藤田
そうなんですね。
山田
とはいえ、大学に入った当初は東京にあこがれていました。
愛知に東京藝術大学の先生が教えに来ていて、東京の学生の作品を見せてもらったとき「僕の方が描けている、もう東京には行かなくていいや」と思ったのです。
愛知芸大での僕は、自他共に認める優等生ポジションだったし、のびのび制作できたので、居心地が良かった。
東京も関西も行きやすいし、家賃も安いし、仕事もあるし、という理由でずっと名古屋に住んでいます。
藤田
PEELERの、このウェブデザインをしている野田さんは、私や山田さんより2つ年上で名古屋芸術大学なのです。
野田さんは卒業後間もなく「N-mark」というチームで展覧会やアートイベントの企画をしていました。
そのころ、つまり90年代後半から2000年代の名古屋は「N-mark」や「dot」、「(犬山の)キワマリ荘」など、アーティストランスペースやオルタナティブスペースの活動や作品発表が盛んだった記憶があります。
そういった動きと山田さんは、関係していなかったのでしょうか。
「(11-6) GARDEN OF EARTHLY DELIGHTS」 |
山田
「dot」は、僕の学年2つ下くらいの子たちが関わっていました。
僕はまだ作家らしいことをしているわけでも発表する段階でもなく、先ほど優等生ポジションと言いましたが、要するに大学の枠の中でしか制作していなかったので、「まず発信をしたい」という彼らの活動からは完全に出遅れていました。
藤田
なるほど。
山田
それと当時まだ受験が厳しくて、クラスの25人中3人しか現役合格がいない、女子が2人で唯一の男子が僕でした。
「dot」の子たちは、学年は下だけれど年齢は同じくらいなんですね。
だから関係性として、クラスの和にも入らず、「dot」にもあまり関わらず、という状況でした。
藤田
大学卒業したあとはどうでしたか?
山田
大学院に入り、アトリエが先生たちと同じ研究棟になりました。
ひとりもくもくと絵を描いて、あまり人と関わることをしなかった「学校内ひきこもり」でした。
そうなると、もはや名古屋だったこともあまり意味をなさないですよね。
藤田
へえ!
とはいえ「つくる」だけでなく「吸収」もしなくてはいけないですよね。
山田
画廊はすごくまわって、いろいろな作品を見るようにしていました。
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