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作品《KAGE》からひろがった
藤田
そもそもメンバー構成として、お二人がはじめられたのですか?
近森
いいえ、最初はそれぞれで作品をつくっていました。
久納
私たちは大学で知り合いました。
私は最初、国際政治を勉強したかったのです。
でも慶應大学湘南藤沢キャンパス(SFC)はいろいろな融通が利く大学で、たまたま必修のコンピュータの授業を取ろうとしたときに、メディアアーティストの藤幡正樹さんの授業もあったんです。
そこで私は、ものをつくることに目覚めたのです。
近森
当時一般的にはまだパソコンもあまり普及していない頃でした。
僕らはSFCの2期生なのですが、SFCでは入学とともにパソコンが一人一台くらいの割合で与えられたんですね。
Eメールアドレスを持ち、メディア社会の中で生活することが当たり前の環境でした。
高校時代から僕は、油絵を描いていたこともあって、そういった環境にだんだんフラストレーションがたまり、映像とかメディアとかではなく、手を動かしてつくることを始めていったのです。
藤田
手を動かす、ってどういう意味ですか?
近森
学内で展覧会を勝手にやっていたりとか、学校の近くにあったIDEEの家具製作や建築家とも仕事をしている金属系の工房に出入りしたり。
だけど、アーティストになりたいと思うこともなかったし、アートで生活することを想像もしなかったんです。
大学で関口敦仁さんとかの授業を受けたこともあります。
僕は、大学だけでは満足できなくて、作品制作の出来る環境に行きたい、と筑波大学の大学院へ進学しました。
当時、筑波大学の技官が明和電機の土佐さんで、見学に行ったときには案内もしてもらって。
そうして、筑波大学に進学したあとに《KAGE》という作品をつくったんです。
藤田
置かれている立体に触ると影が伸びる、という作品ですね。
近森
そうです。
「かげ」がテーマのインタラクティブな作品で、立体物に触るとその影が、これは映像の影なのですが、動き出す、というものです。
僕は《KAGE》を97年のアルスエレクトロニカに応募したんです。
アルスエレクトロニカはコンペやフェスティバルが知られていますが、美術館や研究機関もあって、97年のフェスティバルで展示することになったんですね。
藤田
そうなんですね、コンペだけしか知りませんでした、展示もできるんですね。
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近森
展示をしたら評判がよかったんです。
つまり、ヨーロッパ各地の美術館の学芸員やフェスティバルのディレクターから「うちでやりたい」という話を4、5ヵ所いただいたんです。
翌年はヨーロッパツアー(笑)。
一年間、展示で予定が埋まってしまったんです。
僕もちょうど留学もしたかったので、ドイツのZKMでメディアアートを勉強することにして。
当時ヨーロッパでもまだメディアアートはさかんではありませんでしたが、ここは美術館と大学、レジデンスのあるところで、本当に充実していました。
久納
当時、97年にICCが出来たり、ドイツもZKMができたり、と世界的にメディアアートの施設が出来てきたころだったんです。
日本でも文化庁メディア芸術祭が始まり、《KAGE》は第1回文化庁メディア芸術祭デジタルアート[インタラクティブ]部門大賞を受賞しました。
藤田
へぇ、そうなんですね、すごい!日本の活動もなさってたのですね。
近森
留学した99年、日本で展示とかワークショップの依頼が来たので、結構日本に戻ってきていました。
東京都写真美術館、ICC、群馬県立近代美術館など・・・。
久納
私たちの作品は、メディアアートだけでなく現代美術の流れで見られたり、「技術がバックグラウンドにあるアート作品」として、美術やデザインなど様々な分野から声をかけられる感じです。
藤田
お二人ともそれは望んでいることなのですか?
久納
望んでいる、というより、むしろどこに行っても違和感がある(笑)。
でも私たちはそもそも美術畑ではないから「美術はこういうことなんだ」とか決めつけずに、美術以外の分野や、日本以外のいろいろな国を、のぞくことが出来る面白さを感じることができます。
藤田
それって、得ですね。
近森
だからこそ僕らの実態の分からなさなんですけど(笑)。
久納
しかも社会的には、パソコンとかインターネットとかのインフラがまだあまり整っていない時代でしたし。
藤田
いや、スゴいですよ。 |
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