toppeople[増本泰斗インタビュー]
増本泰斗インタビュー

「Grêmio Recreativo Escola de Política」ウェブサイト

社会とつながる
アート作品をつくる


藤田
さらに続く作品としては、どういったものになるのでしょうか。

増本
そのあとが、ぶわっと作品数が多くなっていくのです。
まず《Grêmio Recreativo Escola de Política》。
先ほど、撮影現場自体がすでに何かを表現しているのではないか、と言いましたが、これはまさに撮影現場そのもののようなプロジェクトです。
もう少し具体的に言うと、これまでの作品で、多くの人たちと協働で議論しながら知恵を絞りあった時間が刺激的だったことや、数学者のシーモア・パパートを介してブラジルのサンバ学校における初心者も熟練者も共に学ぶという状況が存在することを知り影響されたこと。
そういったことが、タイミングよく交わったかたちで始まったプロジェクトで、僕たちの属する社会についてもう一度考え直そう、ということを目的にしています。
主に教育現場での実施が多いのですが、それだけでなく、街や河原、山、海、自宅などさまざまなところでしています。


藤田
長いタイトルですが、どういう意味なのですか?

増本
実際存在するサンバ学校の名前をもじって、Política(政治)のEscola(学校)、という意味でタイトルを付けました。日本語に意訳すれば「政治のレクリエーション学校」になるのでしょうか。。。


藤田
具体的にはどういうことですか?

増本
例えば、非常勤として受け持っている授業では、「戦争写真をどう見るか」というテーマに挑みました。
僕たちは写真を見るとき、「何を」見ているのか、とか、「分かった」と思うときは「何を分かった」のか、とか、見るという実践をしながら学生たちと一緒に考えるんです。
写真を見ているとき、座ったり普通に立っていたり、つまり快適な状態で見ることが多いですよね。
学生と話しあっていて、そのような快適な状態で戦争写真を見て、戦争について考える、というのは状態として不十分なのではないか、という結論に至りました。
そこで「走って息も荒い状態」とか、「見ている隣で違うことを人が言う状態」とか、そういう快適ではない状態で戦争写真を見るとどう見えたり感じるか、を体験してみたのです。
 

藤田
面白いですね。
1月にあった、京都Antenna Mediaでの「KYOTO ARTISTS MEETING 2013」展の作品についても教えてください。

増本
僕の子どもが生まれた後、ほどなくして、妻の社会復帰や育児労働について考えている中で思いついた作品です。


藤田
私が見に行ったとき、その場にいた人たちで机の板を持っていましたよね。

増本
机って、食事をつくる場だったり、食べる場だったり、みんなが憩う場です。
このプロジェクトでは、足のない机、つまり天板のみを複数人で持ち上げているだけなのです。
その天板上で、ご飯を食べたり、お酒を飲んだりしているのですが、誰かがひとり手を抜くと、他の誰かにその負荷が掛かります。
つまり、誰かが獲得した自由によって他の誰かが不自由を強いられることになる、というのが、いまの社会を現していますよね。
足のない机をみんなで持つ、ということによって、その状態を目に見えるように、体で直に感じる作品なのです。


藤田
ああ、分かります・・・・・・。


増本的ローカリズムのありかた

藤田
最後に「PEEELER」は、日本のアートは東京だけじゃない、という発想ではじめたウェブなんです。
京都は展覧会が比較的多い町だし、増本さんも東京とかあちこちで発表されてるから、いま京都にいる重要性を聞くのも愚問かもしれない。
かといって、特に震災以降、「地元大事!」みたいな動き、地産地消みたいな動き、がアートでも世の中全体も盛んになっていると思うんです。
増本さんにとって、京都はどういう町だと思いますか?

増本
京都は、僕みたいな2年ほどしか住んでいない者が色々と語ることを憚れる土地ですよね(笑)。
また住んでみると、よく耳にするステレオタイプな京都のイメージが、実際はどうなのかを判断できたりもします。
アートにおいては、ダムタイプのような動きがあったり、日本の美術史において重要な土地であることは何となく知っています。
同時に、東京になんでもかんでも集中していて、京都はやっぱりその周辺に位置していると思うこともあります。
さらにそれと同じように、アートの中心地にベルリン、ロンドン、ニューヨークを挙げると、東京は辺境だなぁと思うこともあります。
でも、そのような考え方ばかりだと、なんか世界がひもじくなっていくように感じています。
藤田さんの質問とずれるかもしれませんが、最近何となく、グローバルなものとローカルなもの、その関係について気になっています。
それは既存のグローバリズム、ローカリズムという概念がちょっと強引な理論なのかもしれないということなのですが。  


藤田
つまりどういうことですか?

増本
もし本当に世界が複雑であるなら、それを図式的に考えることは適当なのだろうかと疑問をもちはじめている、ということです。
おそらくその疑問は、ウォーラーステインが言うような、世界を一体として把握する視座を持つことに繋がっていくのだろうと思うのですが。。。まだモヤモヤしています。
例えば、世界各地のビエンナーレやトリエンナーレはなかなか直接出向くことが難しいですが、youtubeなどで「見る」ことができます。
それは、インターネットによって初めて出会う作品があり、辿りつける場所があると言い換えられます。
あるいは、僕がいる京都はベルリンの隣にあると捉えることもできます。
それは、飛行機の直行便にのれば、関空の次の駅はベルリンという言い方もできるのです。
でも、そのようなことが本当にグローバル化したということなのかと考えているわけです。
一方で、グローバル化された世界だからこそローカルの独自性が強調されると捉えるのもどうなのだろうと考えています。


藤田
ほう。
私もyoutubeでドクメンタを制覇した気分になってるし、最近のローカルの独自性の強調にはうんざりしてます。

増本
あとそのような観点から考えると、トラベルの意味も変化していくのではと思うのです。
例えば、著名なアーティストの多くはヴェネツィア・ビエンナーレの次はドクメンタに出て、ニューヨークの美術館で展覧会をして次はロンドンへ、と世界中を飛び回っています。
そのこと自体は僕も賛成ですし、そのように僕も出来たらと思うこともあります。
でも、大体のアーティストはそんなに各地を飛び回ることはできないですよね。


藤田
作品の内容や質ではなくて?お金の問題ですか?

増本
そうです。
アーティストだけでなく、多くの人がそんなに頻繁に世界を飛び回っているとは言いがたい。
せいぜいインターネット上ぐらいで、現実的には、労働とお金の問題があって、限られた人たちしか世界各地を実際に行ったり、見ることはできないはずです。
つまり、ある土地にステイすること、ステイせざるを得ない状態も見つめ直していく必要がある、と考えて始めています。
それは、目の前の土地を世界の一部として責任を持とうとする行為なのかもしれません。
あるいは自分自身が、フットワークよくいろんな土地に出向くことができなくなってきているからかもしれません。


藤田
でも海外に行ったからどうの、とかよりも、京都だろうがベルリンだろうが、どこでも、人と会うことは大切な行為ですよね。

増本
そうだと思います。
多分、そのような手の届く範囲でのネットワークを、改めて確認していきたいのだと思います。
例えば、レジデンスを利用して世界各地に滞在するのではなく、海外にいる友達を頼って現地に赴き、その友達のネットワークとゆるく接続すること。
逆に、国内外の僕の友達が京都に来て、僕のネットワークとゆるく接続する。
お金の問題はあるけれど、そのようなゆるいネットワークを広げていくこともできるわけで、僕はそこでの関係性の方に興味があります。
こうした状態からもう一度、ある土地との関わり、世界との関わりを考えなおしていきたいと思っています。
まだどうやればよいか分からないので構想段階なのですが、少しずつ進めていきたいですね。

藤田
なるほど、なるほど。
今日はいろんなお話ありがとうございました。
 
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