《country house》 陶 サイズ可変 2010 新宿眼科画廊
「陶」から焼き出す鉄の質感
(手前)《宝珠》 陶、鉄、塗料 h205×w320×d95cm 1998
(奥)《天鬼坊》 陶、鉄、塗料 h255×w76×d130cm 1998
ギャラリーなつか
(左)《−記憶の庭− 塊》 陶 h50×w50×d50cm 1999
(中央)《−記憶の庭− 破れた塊》 陶 h50×w50×d50cm 1999
(奥)《−記憶の庭− 礎》 陶 h120×w45×d55cm 1999
ガレリアラセン
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立石
唐突ですが、まずは素材についてお聞きしたいと思います。
ブロンズの作品だと思っていましたが、実は違うのですね。
深井
はい、焼き物です。素材的には「陶」です。
立石
「陶」とは、陶芸の「陶」でしょうか。
深井
そうです。
同じような素材を使っている彫刻家でも僕のように「陶」という言葉を選んで使っている作家さんもいれば、「テラコッタ」という言葉を選んで使っている作家さんもいます。
テラコッタというのはイタリア語で「土を焼く」という意味だと思います。terra(テラ)が「大地」、cotta(コッタ)が「焼く」。
この「テラコッタ」という言葉を選ぶ作家さんが彫刻家には多いのですが、僕の場合は素材的にあまりイタリアのテラコッタの影響で始めていないので、「陶」という言葉を素材として使っています。
立石
同じ素材でもどの言葉が使われているかによって、その人の制作のルーツが分かるのですね。面白いです!
深井
僕は、彫刻だけでなく陶芸も好きで、陶芸史や焼き物の技法を独学ですが勉強していました。
日本の焼き物の中で彫刻的なものというと、例えば縄文土器や土偶もそうですし、埴輪も。あとはさらに時代が下がると狛犬、鬼瓦など……つくられていましたよね。
明治時代に西洋から「美術」というものが初めて入ってくるまでは、そういった認識が日本になかったと思うんです。そのためにそれまでの日本の彫刻的なものは、仏像なども含め工芸的であったと思うのですよ。
そんなところからも影響を受けてますし、自分は器をつくらない様にしてるんですけれども、器ももちろん好きです。それに陶芸家の方が書いた文献などからも釉薬の勉強をしました。それに作品に使っているのは日本の土です。だからやっぱり「陶」という表現を使った方がいいんじゃないかと思っています。
立石
なぜ、「陶」という素材だったのでしょうか。
深井
彫刻というのは大きく分けるとカービングとモデリングの作業、つまり彫刻と彫塑の仕事という二つに分けることができます。
カービングというのは刻む仕事です。固まりから中にあるカタチを彫り出していく、それが彫刻、刻むっていうことなんですね。
で、モデリングというのは土で盛っていく作業のことなんです。ないところに存在させていくっていう。まるで正反対の性質です。
僕は、塊のなかからカタチを見つける作業(つまりカービング)があまり得意ではなかったので、モデリングで制作していくことに決め、最初は鉄と焼き物を組み合わせた作品をつくっていました。
鉄も板状になった製品を切ったりつけたりするので、わりと作業的にはモデリング的でしたが、ちょっと違うなと思い、陶の部分だけで制作する様になりました。
モデリングから起こす素材には、プラスチックやブロンズなどいろんなものがありますが、それらが彫刻的な表現の最終地点に到達するまでに、ほとんどの場合は少なくとも1回は型におこす作業が必要になってきます。それはだいたい石膏でやるんですけれども、僕の中でその作業に対して嫌悪感のようなものがあったんです。1回違う型に通して、もう1回モノができてそれを更にいじっていく。その間になにか冷めてしまうというか。最初につくったときのリアリティみたいなものが、完全にそこから消されてしまうのではないかと思ってしまうのです。
それで、モデリングしたものがそのままカタチにできる手法はないかと考えたとき、たまたま大学の時のサークルが焼き物のサークルだったこともあり、わりとすんなり「そうだよ、陶という素材を使えば、モデリングのままをかたちにできるんじゃないか」と。
ドローイング インク・アクリル・紙 h39×w27p 2010 新宿眼科画廊 |
立石
「はじめにつくったかたちそのままを作品にできる」、以前同じように陶を扱う作家さんから利点として聞いたことがあります。
深井さんはどのような制作方法なのでしょうか。
深井
まずはドローイングを、色を使わずインクかペンか鉛筆のモノクロだけで行います。1個の作品に対してスケッチブック1冊とか何冊とか、つくれるなと思えるまでずっと描く。それはほとんど作品として見せることはなくて、自分のための、自分の制作のためのアイデアでしかありません。
それで、平面の中でなんとなくイメージが完成してきたら立体に起こします。
例えば今回の様に裏表ある薄い作品は、真ん中になる部分をテンプレートでつくって、それに沿って表側をつくり、テンプレートを反対にして裏側をつくる。真ん中が同じだったらふたつは絶対に合いますよね。
それぞれはまず無垢の塊でつくって切断し、それから裏から削り出します。無垢のままでは厚みにバラツキがあって割れてしまうのです。それで焼きおわってから専用のパテなどでくっつけて修正します。というわけで薄くても中身は空洞なんですよ。
モノによっては陶芸の壷をつくるような輪積みの手法でつくったりするんですけど、粘土は重力に弱い素材なので、重力が邪魔をして輪積みだとつくり辛いカタチがでてきます。そういった場合は、無垢の塊から削りだす事が多いです。
そのあと最終的な段階になって、もう一回最初に描いたドローイングからイメージを膨らませて、作品としてのドローイングを描きます。
《mountain / hand》 陶 h10×w21×d10p 2010 新宿眼科画廊 |
《mountain / hand》 陶 h12×w24×d12p 2010 新宿眼科画廊 |
立石
どっしりとした見た目にしては、実は軽い作品もあるということですね。
このブロンズや鉄のような黒っぽい色には、何か理由はあるのでしょうか?
深井
先程もでましたが、僕はもともと鉄で作品をつくりたかったんです。
鉄って板材とか丸棒とか、そういう製材を、叩いたり、つないだりして3Dを形づくっていくんですが、それは結構な労働で、時間もかかります。時間をかけることが悪いとかっていう話ではなくて、イメージ上の最終的なカタチにできるだけ速くストレートに到達したくて、だんだん粘土の割合が多くなって最後には鉄をやめることにしたんですね。
でも鉄の質感っていうのがやっぱり好きで。その気持ちが残っているから、ああいう色を選んでしまうのかもしれません。あの釉薬は、僕が考えてつくった釉薬で、もう10何年以上使っています。
もうひとつ理由があって、はっきりと立体の上に色分けした色を載せてしまうと、僕の場合しっくりこなくなってしまうというのもありますね。表現によっては効果的だと思うんですが、なかなか上手くいかない。嘘くさくなるんです。
立石
今度の作品、《mountain / hand》のシリーズはちょっと色みが感じられますね。
深井
そうですね。去年一昨年と2年間にわたって、4日に1点小品をつくるっていうシリーズをやりまして、年間60点くらいつくりました。そのときにいろいろ実験的なことをやったのですが、その中で面白くなりそうな要素を少しずつ取り入れてこれからいきたいなと思っています。
今回のものはそれを大きな作品にもどして第一弾、という感じですね。小品と言っても50cm四方くらいのサイズですが。
画廊からの発言 新世代の視点2009 展示風景 ギャラリーなつか |
(左)《the tower is burning》 陶 h48×w20×d20cm
(中央)《man / beard》 陶 h37×w41×d26cm
(右)《mountain / hand》 陶 h38×w50×d19cm 2009
ギャラリーなつか
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立石
あの色は上から塗っているのでしょうか?
深井
いえ、あの色は塗っているわけではありません。
焼くと発色する顔料を練り込んだ土を使っています。それらをちぐはぐに積み上げていって、上から黒い「泥漿(でいしょう)」をかけます。それが乾いたあとに、クレヨンでやるスクラッチングように、削って彫っていく。で焼くと、彫られた部分だけ下の色が発色するというわけです。
立石
ではあの大きな山の作品は、泥しょうを取り除くととてもカラフルな立体になるのでしょうか。
深井
そうですね、でも全部じゃないです。大部分はいつもと同じ土を使っています。色をつけた土は発色を優先しているので、大きさに耐えられない弱い土なので全部あれでやるっていうのはなかなか難しいですね。
また、自分の中で、釉薬や泥漿をかけるということは「オブラートに包む」というような感覚があります。そのままだと僕の指のあとや篦のあとがもっと荒々しく残っているんです。それに1層のせることで生々しすぎる感じを中和しているというか。
でもこれはもうちょっとぴったりとくる使い方があるんじゃないか、まだまだ考えていかなくてはいけないなと思っています。
《mountain / hand》 陶 h70×w180×d20p 2010 新宿眼科画廊 |