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美術散歩

藤田嗣治とその生き様

TEXT 菅原義之


「藤田嗣治展」(東京国立近代美術館)/フライヤー

 4月12日(水)、東京国立近代美術館で開催中の藤田嗣治展に行った。会期の初めだったし、桜も終わったころだったので、あまり混んでいなかった。この美術館は桜の名所“千鳥が淵”に近いので桜の頃は大変だったそうだ。

 藤田嗣治(1886〜1968)といえば、1920年代パリで活躍したエコル・ド・パリ(パリ派)の画家の一人だ。そして世界で認められた画家だということができるだろう。藤田は、私にとって魅力ある画家だ。初めから世界を相手に積極的に勝負に挑んだからである。その心意気たるや素晴らしいものだ。並々ならぬ努力の結果その挑戦は成功した。
 絵画のためだったらかなりの犠牲を払うにやぶさかでなかった。絵画が何より優先した。これが藤田の生き様だと言うこともできるだろう。いくつか私の気のついた藤田らしいところを見てみたい。

 藤田は家庭がよかった。経済的な面と親の理解、その両方が備わっていた。父親が美術家になることをすぐに認め、それにはどうしたらいいかを父(陸軍軍医)が上司である森鴎外に相談。その結果フランスに行くにしても日本の美術学校は出ておいたほうがいいと言われ、藤田は東京美術学校に入った。
 1910年同校卒業、その後夏に千葉の木更津海岸への写生旅行中に知り合った美貌の登美子と1912年に結婚、翌1913年単身でパリへ。その翌年登美子をパリに呼び寄せる約束だった。ところが、第一次世界大戦が始まり、呼べる状況ではなくなった。でも藤田はパリで絵を描き続けた。そして父宛に手紙を出し、登美子との離婚話をまとめてもらったのである。藤田が登美子と暮らしたのはほんの半年ほどだった。妻より絵が優先したと言えるのではないか。戦時下、そして当時の東京、パリ間は船で45日もかかるほど遠かった。それにしても驚くべき話である。

 藤田は当初3年留学の計画だったが、フランス在住1ヶ月で、その計画を破棄、永住の決意を固める。当初から内心その気持ちだったのかもしれない。
 1914年戦争が始まるとフランス在住日本人の多くは、帰国するか、ロンドンへ避難したそうである。安井曽太郎(1888〜1955)は帰国組みの1人である。藤田はこんなときこそ、画家になるための絶好の機会だとあくまでパリにとどまった。いかにも“人のやらないことをやろう”とする藤田らしいところではなかったか。


《二人の友達》1929年 油彩、キャンバス
   藤田の2歳年下に梅原龍三郎(1888〜1986)がいる。梅原は1908年から13年まで5年間パリに留学。藤田は梅原の帰国した1913年にパリへ。5年あとである。
 当時のパリでは日本に紹介され始めたばかりの印象派の時代はすでに終わり、キュビスム、未来派など新しい絵画の時代が始まっていた。
 梅原は、パリ到着の翌日リュクサンブール美術館に行きルノアールの作品に深く感銘をうけ、翌年には南仏カーニュのアトリエにルノアールを尋ね指導を受けることになる。梅原は当時21歳、ルノアールは68歳だった。また後にピカソとも会っているが、キュビスムには少しも関心を払わなかった。
 藤田はどうだったか。梅原とは逆に印象派の絵画に関心はなかったようだ。パリ到着後まもなく、スペインの友人に連れられてピカソを訪問。そこでキュビスム作品やアンリ・ルソーの作品を見せられ驚嘆。日本で受けた美術教育とのあまりの落差に、悔しさのあまり家に帰って絵具箱を床にたたき付けたという。
 藤田がいかに時代の移り変わり、現況把握に敏感だったか。日々が戦場だという世界への挑戦者の意気込みが如実に現れている。
 典型的な留学組であり、先輩画家が歩んだ既定路線を歩む梅原と、前例のない永住派であり、新規路線を開拓する藤田とは、スタート時点で大きな意識の違いがあったと言えよう。

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著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、中大法卒、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。

 

 

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