top\reviews[PLANET STREET―2000年後に発掘された〈駅〜まち〜美術館〉/千葉]
PLANET STREET―2000年後に発掘された〈駅〜まち〜美術館〉

カメラ店での展示

わかりやすさと、奥深さと

 
新聞店での展示
 
 
理容店での展示
 
 
不動産屋での展示
 
 
せんべい屋での展示
 
 
八百屋での展示
     
今回の展示では、柴川の作品である様々な化石が、商店街の中にある各店舗の店頭に実際の商品やディスプレイと並んで展示された。
それぞれの店舗の展示は、柴川が事前に何回も足を運んで店の人とコミュニケーションを図る中で、その店の個性を活かしたものをつくりあげていった。
例えばカメラ屋のディスプレイには商品のカメラと並んでカメラの化石が並び、魚屋ではウルトラマンの化石が魚の開きよろしくショーケースに鎮座していた。
また、理容店の鏡の前にウルトラセブンとバルタン星人の化石が客と店主を模して置かれていたり、不動産屋ではスヌーピーの犬小屋の化石と合わせて架空の物件案内を作成したり、と柴川ならではの遊び心が随所に発揮され、難しい理屈は抜きにしても単純に見て楽しめる展示となっていた。
街の中に展示するということは、アートにあまり関心のない人も含めて多種多様な人々が作品を観るということであり、そんな中で街にアート作品が受け入れられるためには、アートにあまり関心のない人をも思わずひきつけてしまうようなわかりやすさが求められると思うが、柴川の作品は、実生活の中で普段見慣れたモノと並べて展示されることで、その見た目の面白さが増幅されるように感じられる。
また、実際の商品にまぎれ込むように展示されることで、観る者は宝探しのように柴川の作品を探すことを促されるが、そのような楽しみ方も、普段美術館にあまり足を運ばないような層の人々には受け入れやすいものだろう。

だが柴川の作品はただわかりやすいだけのものではない。
コンセプトでもある「2000年後から見た現代」に思いを馳せて作品を観るとき、現在の世界と「2000年後の世界」とがオーバーラップして見えてくる。
その観え方も、これまで柴川が化石の作品を展示してきた美術館や博物館などの展示では、現実世界と柴川の「2000年後の世界」とのオン/オフが比較的明確に切り替わっていた印象があるが、今回は、現実世界を土台として、その中で化石の作品を日常のモノと対比させる形で展示しているため、現実世界と「2000年後の世界」とのオン/オフは明確ではなく、むしろ二重写しのように相互に重なり合っているように感じる。
その結果、これまでの展示で感じられた「2000年後の世界」の存在感はやや希薄にはなったが、一方これまでのように美術館や博物館といった日常生活からある意味隔絶された空間を飛び出し、商店の中という日々の営みの中に作品を設置することによって、“滅びのリアリズム”ともいうべきものをより実感できるようになったと思う。「僕らが生活しているこの日常が、将来この化石のようになってしまうかもしれない」とより切実に感じるのだ。
僕たちは今の社会がこのまま続くものだとなんとなく信じているが、そんな保証はどこにもない。一夜にして火山灰の中に沈んだポンペイしかり、9.11のテロしかり。この街がいつ柴川の創り出す化石のような街になってしまうのかはわからないのだ。
そんなことを思いながら柴川の作品を観るとき、それは全く違った表情を見せる。そしてそれは、平和な時が流れる日常の中で観るからこそ、より強く印象付けられるのだ。

見た目のおかしさに笑い、楽しみながらも、ふとそんなシリアスなことをも考えさせる。
これこそがアートのもつ力であり、アートだからこそ成し得ることなのではないだろうか。
このように柴川の作品は、幅広い層にアピールする敷居の低さを持ちながらも作品そのものの深みも併せ持つ、街の中で展示するにふさわしいものとなっていたように思う。






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