最近痛感するのは、作品に関する西欧の評価基準が日本人である私にはあまりぴたりと来ないことである。もちろんすべてではないが、西欧の作品には、端的にいうと理性とか理論が先行するからなのか、「面白くなさ」が目立つように思う。作品そのものよりコンセプトが重要だと言っているようなものすらある。具体的には前号PEELERに記したのでここでは省くが、西欧での評価は向こうの評価なのでそれはそれでいいが、あまりその評価について日本で疑問視する声を聞かない。日本でもそろそろ西欧崇拝の宿痾(しゅくあ)から脱して、日本の持つ固有の判断で広く国の内外の作品について評価すべきではないか。唐突に固有の判断といっても難しいが、幸いなことに、日本の特徴、あるべき姿を取り上げている専門家が何人もいることである。今回はこの中から3名のご意見を勝手ながら拝借し、日本的な考え方とか傾向を整理してみた。(記載順不同、敬称略とした)
1.椹木野衣の見解
美術評論家、椹木野衣は、図書「反アート入門」の最後の2章(「第四の門」、「最後の門」)にて、「隠れ・なさ」という表現を用いてドイツの哲学者ハイデガーの芸術作品に対する見方を分析している。(注)ハイデガーについては、前号PEELERをご参照ください。
ハイデガーは「ゴッホの農民の靴」の絵を例示し、この作品を見たときに感動するのは、それが「美しい」からではなくて、描かれた靴が脚光を浴び、そこから想像できる農民の厳しい生活のあれこれ、「真実」の実態(「隠れ・なさ」)が浮かび上がる。これこそ絵画の「存在」そのものを明らかにする手がかりとなるもの。われわれは「真実」の輝きに感動する。この輝きこそ「美」であり、「真実の輝きが、美を生み出すのであって、その逆ではないのである」(渡辺二郎著「芸術の哲学」(ちくま学芸文庫))としている。椹木の「隠れ・なさ」という表現は、一見表には見えないものの「隠れている輝き」のようなものをいうのであろう。
椹木は、水墨画などに見られる「滲み」、「ぼかし」、あるいは「工(わざ)」、「趣」なども「隠れ・なさ」を現しているという。「滲み」や「ぼかし」の技術は、墨一色でも濃淡により無限の諧調を表現できる。遠近表現すら可能ということであろう。また、「工(わざ)」もさることながら、「趣」こそ人為だけではどうすることもできない生きる精神の働きによるものだ、と。また、雨漏茶碗も同様である。雨漏りの時に天井に見える「滲み」跡には、時にはなんともいえない味わい深いものがある。これを茶碗制作に生かしたものが雨漏茶碗である。これらの手法も見るべきものがあるという。
一般論として椹木は、「わたしたちに『アート』があるとしたら、それは欧米の価値観に追従するのではなく、・・・」、「それは、キリスト教美術のような永遠性や肉の不滅ではなく、むしろ、現れと消滅のほうに顔を向けた新しい『わるいアート』なのです。・・・単なる『本物志向』のようなものであってはならない、ということです。・・・」、と。
ここでいう「わるいアート」、「本物志向でないアート」とは、永遠とか崇高とかの意味あいを含まない、ごく身近なところ、日常の中から見出せるもの・・・・というほどの意味であろう。椹木は、新しいアートの入口が、ハイデッガーの「隠れ・なさ」ということと、どこかで通じ合っているという。
2.辻惟雄の見解
日本美術史家である辻惟雄は、図書「奇想の系譜」、「奇想の図譜」のあとがきで、「奇想」とは、日本の美術作品による「意表を突かれた時の驚きである。眠っている感性と想像力が一瞬目覚めさせられ、日常性から解き放たれたときの喜びである」としている。そして「意外に面白い奇想の世界を日本美術が持ち合わせていることが分かってきた」と。それは「ひとつには日本美術が古来持っている機知性(ウィット)や諧謔性(ユーモア)―表現にみられる遊びの精神の伝統―と深くつながっているように思われる・・・」とし、「奇想」を、もう一つの「飾りの機能」と併せて、「時代を超えた日本人の造形表現の大きな特徴としてとらえたい・・・・」としている。
これこそ辻惟雄が日本美術の中に初めて見出した注目すべき点であり一つの有力な特徴であろう。そして「奇想の系譜」の中で、岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳などをあげ、「奇想の図譜」では葛飾北斎、舟木家本「洛中洛外図屏風」など、伊藤若冲、白隠、写楽について詳述している。
面白いのは、ご存知の方も多いと思うが、辻惟雄と村上隆の「芸術新潮」におけるコラボだ。2009年から11年にかけて辻惟雄が書き下ろしのエッセイを書き、村上隆がそれに応じて新作を描く。21回にわたる手合わせが行われた。内容のほとんどを見たが、両巨匠のやり取りがすごく面白い。一見ご両人はあまり関係がなさそうだが、今や両者の関係は深い。
村上は、「・・・日本画的な作風の中での好みを探っていった結果、たどり着いた作家達がすべて『奇想の系譜』に入っていたことにも驚いた。同時に、この書は、私自身が画家としていつも気にしている画面の構成方法の方程式を考えるための大きな助力にもなった。・・・」、と。さらに「辻氏の指摘するアーティスト達のコンセプトと大きく符合するのではないかという仮説が、そもそも「super flat」を生み出したスタート地点であった。・・・」、と記している。このように村上のコンセプトである「スーパーフラット」の考え方について、辻惟雄の「奇想の系譜」との関係を述べている。
これは村上の一例だが、「奇想」の持つ独特の魅力は無限に広がるはずである。浮世絵が印象派の画家たちにもてはやされたのも「奇想」の面白さからだったのであろう。
3.松井みどりの見解
2007年に水戸芸術館で美術評論家、松井みどりによる「マイクロポップ」展が開催された。ここで松井は「日本の現代美術は1990年代、新たな独創と展開の時代を迎えた。欧米の現代美術の基準をそのまま輸入するのではなく、ポストモダン時代の日本の現実に反応する中で、新しい表現や方法が生まれたのである」、と。そしてこの時代を時代順に第一世代(杉本博司、宮島達男、森村泰昌)、第二世代(村上隆、小沢剛、奈良美智、曽根裕ら)、第三世代に分け、第三世代のアーティスト(60年代後半から70年代生まれ)に一つの傾向が見られ、これを「マイクロポップ」と呼び、次の二点を強調する。一つは、この世代は「イデオロギー的議論や個人的な象徴世界の構築に関心を示さない」とし、もう一つは「マイクロポップの立ち位置とは、ポストモダン文化の最終段階において、精神的生存の道を見いだそうとする個人の努力を現している。」と言う。ちなみに、第三世代のアーティストは、島袋道浩、青木陵子、落合多武、杉戸洋、森千裕、泉太郎、田中功起などである。
20世紀後半の美術は、60〜70年代に至り作品は極めてわかりにくくなった。「重く」なりすぎたと言っていい。この行き詰まりの克服が上記の第一世代、第二世代と順次行われ、第三世代において「マイクロポップ」に至っている。ここにきて「重すぎる作品」から一見「より軽い作品」へ、「わかりにくすぎる作品」から「より親しみやすい、面白い作品」へと変わったといっていいだろう。具体的には、「マイクロポップ宣言」にマイクロポップ作品の通過すべきチェックポイントが記載されている。例えば、「主要なイデオロギーに頼らず」、「マイナー(周縁的)な」、「小さな事実をもとに」、「小さな創造」、「日常の出来事」、「子どものような想像力」、「とるにたらない出来事」、「視点の小さなずらし」、「ささやかな行為」などであり、そこに見えるのはこれまでのメインストリームとは全く別のマイナーな視点であり、多様化時代のストリームである。これらの作品こそ若いアーティストが自分の道を見出そうとひたすら思考してきた努力の結晶ではないか。
マイクロポップは、第三世代にみられる時代を反映した傾向だとして提起されたが、このような傾向は内容の素晴らしさ、面白さから見て、今や年代を超えて一つの有力な考え方として見ることもできるのではないか。
以上が3者についての私なりのまとめである。2番目に記した辻惟雄の見解が村上隆につながっていることは実に興味深い。辻の見解は日本美術の歴史を変えたといっていいのではないか。これに符合する村上の発想の見事さも格別であろう。この延長線上の村上作品を多く見たいものである。まだまだこの分野は開発の余地のあるところであろう。日本を世界に打ち出す非常にいいアイディアではないか。
また、1番目と3番目に記した椹木と松井の考え方は、結論が近いように思う。いずれも、何百年もの間、西欧の世界を支配してきた伝統的、人間中心主義的思想を徹底排除した新しいグローバルな哲学思想を根拠とし、しかもその中から両者が独自に思考して得た日本的な素晴らしいアイディアを結論としているからである。椹木の言う「隠れ・なさ」の考え方は、作品の核心に触れるものであろう。これをベースに幾多の具体例が浮かび上がるのではないか。また、2007年の時点で松井が発表した「マイクロポップ」は、ドゥルーズ&ガタリの考えを取り込むなど今から見ると着眼点がすごい。それだけに「マイクロポップ」的な思考を一つのアイディアとして世代を問わず積極的に取り入れたいものである。
この3者の見解を総合しただけでも日本の持つ評価基準として一つの特徴が浮かび上がってくるのではないか。そろそろ日本として押し出すべき特徴を国の内外の作品について日本的基準で評価したいものである。専門家と一部の愛好者だけの美術でなく、一般の人たちに現代の美術をもっと馴染んでもらうためにもである。