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ベルリンアート便り
   
  フローリアン・シュットル氏

ベルリンの壁崩壊を機に始まったスタジオあっせんプロジェクト

Q.このプロジェクトはどのように始まったのでしょうか?

A. ベルリンには、壁が崩壊する前から多くのアーティストが住んでいました。
壁が作られた1961年以降、多くの産業とそれに従事していた人々がベルリンを離れていったため、地価が下がり、スタジオが確保できるようになったのです。やがて、西ドイツでも東ドイツでも美術大学教育が盛んになり、アーティストの数も増えていきました。
1989年、壁が崩壊すると同時に、西ベルリンにいたアーティストたちはこぞって東ベルリンへ移動しました。ミッテ地区には400件ほどのスタジオがあったのですが、土地や建物の所有権を巡る問題、地価の高騰を目論む投資家などによる買い占めが起こり、アーティストは出て行かざるを得ない状況になってしまったのです。そこでアーティストたちは、BBKと協力して様々な抗議運動を行なった結果、91年にはベルリン州がこのスタジオあっせん事業の設立を認め、資金援助を行なうことを決定したのです。


Q.このプログラムは州の都市開発部門や文化省と協力して行なっていますね

A. はい。93年から本格的なプロジェクトとして動き始めました。このプログラムを通して、現在700以上のアトリエが保持され、新しく加えられています。新しくスタジオとして提供される物件は、たいてい賃貸の工場や空き店舗など長い間借り手がなく、リノベーションが求められているようなところが多いです。州から業務を委託された非営利の都市再開発コンサルタント会社と恊働して、プランニング、リノベーション、運営方法のアドバイスなどを行なうほか、アーティストの大家としての役目も果たしています。
土地や建物の所有者にとっては、税制の優遇措置や、五年間の収入保証があるなど好条件と言えます。これは賃貸料にも反映され、市場価格より安価でアーティストたちに提供することが可能になります。その他にも、もともとアーティストが個人で賃貸契約を結んでいたスタジオを、我々が代表して借り上げ、長期的に安価で提供できるようにしたところもあります。
また、メンテナンスやリノベーションにかかる費用を土地所有者と折半し、スタジオとして使えるように整備した建物も多くあります。例えば、クンストファブリーク(ベルリンアート便り第4回参照)は、かつて非営利の団体がビルを借りていましたが、我々から投資、資金調達、運営のアドバイスを受け、自助運営団体に移行していきました。我々が設立に際して手助けをし、軌道に乗った後はアーティストたちに任せるという方法は、彼らが発展のため切磋琢磨していくようになるので良いと思います。
他にもこのような手法で、アーティストランスペース、文化センターなどが運営されています。
アーティストと貸し手の両者にとっても保証があり、継続しやすいというメリットがあります。


Q.スタジオの応募の仕方は?

A. 二ヶ月に一度、スタジオとスタジオ兼住居の情報をホームページで公開しています。入居希望者は、必要な書類を提出します。収入やスタジオの必要性などの条件に基づいて審査が行なわれます。

Q.なぜアーティストへのスタジオあっせんが必要なのでしょう?

A. プロフェッショナルなアーティスト活動は、それにふさわしい労働環境なしには実現できません。街が発展するためには、交通、教育、エネルギー供給などのインフラが必要であるように、アートが発展するためにはインフラが必要です。スタジオは、奨学金やコンペなどと同様に重要なものです。アートとその活動の場が保護されるものであるならば、アーティストがスポンサーや活動が出来る場所を求めるのは当然です。


大型作品も余裕で制作できる規模
彫刻工房内
彫刻工房内
一棟まるごとスタジオ兼住居の物件
スタジオ内
スタジオ内
しかし、コストと利益の圧力がアーティストを郊外へと追いやってしまい、ベルリンではこの基本的インフラが危機的状況になりつつあります。アートは孤立していては存在できません。美術館、ギャラリー、コレクター、メディア、鑑賞者とのネットワークを必要とします。アーティストが街を離れたら、ギャラリーも他のものも同じような運命を辿るのです。街の繁栄と国際化は、アーティストを追いやった代わりに行なう利益性の高い土地利用でも補えないのです。

Q.アーティストの反応はどうでしょうか。

A. もちろん感謝してくれます。
ベルリンのアーティストには、団結し互いに助け合う傾向が見られます。これは大都市では珍しいと言えるでしょう。アーティスト同士のコミュニケーションの場がある、仲間も沢山いる、そして、我々のサポートシステムもある、物価も安いし、インターナショナルな街です。だからアーティストはベルリンに来るのでしょう。アーティストが社会とのネットワークを持てる可能性も高いし、グローバルなネットワークも同時に持てるのです。


Q.プロジェクトで大変な点は?

A.ロビー活動です。ここ二十年ほど、ドイツの大都市は経済的に苦しい状況が続いているのでロビー活動はとても困難を伴います。70年代の終わりから我々は街の都市開発部門と協力してきました。議会も現代芸術の振興を非常に重要なものと見なし、独自の文化政策を実施して成功しました。しかし、2005年にプロジェクトへの文化省からの補助金が打ち切られ、今は土地開発部門からの補助金だけで行なっています。
議会のメンバーも選挙ごとに変わり、我々の活動を支持しくれていた人々も引退し、世代の交代が始まっています。芸術文化を支持してくれる人は議会でそれほど多くはありません。しかし、BBKは政治的な人々にも理解してもらえる様々な業績を残してきたし、恵まれていると思うのですが。


Qプロジェクトから14年経った現在のベルリンの状況についてどう考えますか?

A.ベルリンに来るアーティストはまだまだ多いです。しかし、問題なことに、ベルリンにはアートマーケットがありません。ここ数年はアートフェアも開催し注目を集め、作品を買う人も増えてきつつありますが、ベルリンでアートを買う人は、他の国か他の街から来ています。そして、ベルリンにいるアーティストは、パリ、ロンドン、ドイツ西部の都市などベルリン以外で作品を売っているのが現状です。しかし、それは逆にアーティストにとって良い環境かもしれないと個人的には感じています。

生きた芸術の街を生み出す文化政策方針

 展覧会などを通しての文化振興を目指す非営利の団体は多いが、BBKは、特定の個人のスポンサーとなるのではなく、不特定多数のアーティストへのインフラ整備と共有を目指した活動を行なってきた貴重な存在である。
産業構造が変化し、「創造性」が都市の最後の切り札となった80年代から、ヨーロッパの都市はこぞって文化による都市再生に着手し始めた。ベルリンでは、壁の崩壊と首都機能移転による都市の大再開発を背景に、アーティストと都市政策を行なう人々が互いに歩み寄って一つの政策が進められてきた。アーティストが暮らせるような地盤の整備を行ってこそ、中身の伴う生きた芸術文化の街が出来上がる。
ここ10年でベルリンは大きく変化を遂げた。エネルギーに満ちた時代は終わってしまったのかもしれないが、BBKは、真摯に活動を続けるアーティストと共に、押しよせて来る商業の波に対する防波堤となり、生きた芸術文化の街を形作っているのかもしれない。
 
 
 
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