topspecial[アートエッセイ/マスキングプラント/宮城]
マスキングプラント/宮城
マスキングプラント
TEXT 田多知子
 
 2010年の10月のはじめから16日17日にかけて、約3週間にかけて、せんだいマチナカアート(以下マチナカアート)の一環として、淺井裕介が、仙台のいろは横丁を中心にマスキングプラントの制作とテープ鳥のワークショップを行った。
 筆者は2008年、横浜美術館で行われたマスキングプラントの制作について記事を書いたことがある。今回マチナカアートで行われた作家の選定の際に、仙台市市民文化事業団の人々は、その記事を読んで、淺井に興味を持ったとのことを聴いた。実際には、淺井のマスキングプラントの制作はあれから少しずつ変化している。前回わたしは、マスキングプラントを「つなぐ」ものとして書いたが、それはずいぶん変化しているし、他の要素も濃い。今回は、筆者の地元仙台で行われたマスキングプラントの制作について、考察をしてみたい。


2008年 横浜美術館でのマスキングプラントの展示


横浜美術館での電話ブース


2007年とたんギャラリーでのマスキングプラント(中期)


町の中に描かれたマスキングプラント(ゲリラ)

 この記事を書くにあたり、淺井にインタビューを行った。その際、彼は描くことについて、以下のように語っている。
 淺井は、描いているとき、太古から続く大きなエネルギーの固まりのようなものを感じながら描いている。ひとりではない、と同時に、自分が引き継いでいるものについて、細心の注意を払いながら制作を続けている。「自分が引き継いでいるものについて、少しでも良くする、もしくは、悪くしないものをのっけなければいけない」と語る。その大きなエネルギーの固まりにとっても、自分にとっても、「描いてよい時間」「描いて良い場所」というものがあり、それが続いていくことが重要で、そのとき何を描くかというのはあまり問題ではなく、その瞬間に描くとき細かいところまで調整していられないが、マスキングプラントだとそれをそのままその場所で自然に出せるといっている。それが、淺井にとってのマスキングプラントのひとつの役割なのだろう。
 彼にとって、自分以外のこの大きな太古から続くエネルギーの固まりの意志を継ぐことはとても重要なのだと思う。一見、受け入れにくい言葉にみえるが、何かをつくるものにとって、自分以外の何物かの力を借りてつくることは、ごく一般的なことだと思う。だから、この淺井の考え方が特別特異だとは思わない。ただ、歴史を引き継いでいるものとしての自覚が、彼の立ち位置をとても明確にしているし、彼の創作にとても強く影響しているのだろう。それは、淺井の創作の秘密かもしれない。
 マスキングプラントが、その淺井の創作の最初の形をとったことについての理由がここには明確に示されている。描いて良い場所、良い時間を探し出し、引き出してきて、調整し、いざ描こうとするとき、ほとんど用意がいらないマスキングプラントは、描き出すことが容易だ。そして、外してしまうことも簡単だ。
彼は、以前、「間違ったときはわかる。それだけはすぐわかる」といっていた。今回のインタビューで、彼が何を基準にそれを判断しているのか、より深くわかった。


マチナカアートにおいて製作中の淺井 ©(財)仙台市市民文化事業団

マチナカアートにおいて製作中の淺井 ©(財)仙台市市民文化事業団


マチナカアートワークショップ ©(財)仙台市市民文化事業団


マチナカアート お店の作品 ©(財)仙台市市民文化事業団


マチナカアート ススキノの作品 ©(財)仙台市市民文化事業団


 そのマスキングプラントを今回は、仙台の街中で展開した。
 期間は3週間と短かったが、毎日、描く場所を交渉し、小さいお店の中にマスキングプラントをつくっていく。お店の人と話をし、作り終わった夜は、そのあたりでご飯を食べる。そんな日が続いた。わたしは、淺井が横浜美術館で制作しているのを、丸二日しか見ていないが、そのときとは明らかに違うものが今回の制作にはあった。今回、連日制作する場面に立ち会って、街が淺井の手によって、全く違った視点を獲得していく様子を目の当たりにした。今回彼が挑んだ場所は、かつて、仙台の作家が何回か、アートプロジェクトを展開したことがある町だ。細い横丁に、数々の小さい店舗が並ぶ。比較的低価格で、おいしいご飯、あるいは、洋服や革製品などを提供するこの横丁である。
 わたし自身もこの横丁が好きで、たまに訪れる。しかし、いったん淺井が、マスキングプラントで、その場所につながりをつくり、場所に含まれる人とつながりをつくっていくと、場所は、どんどん変化する。マスキングプラントは、たしかに「つなげる」。しかしそれは、単純に関わる人の会話を増やし、その場だけで盛り上がるようなテレビの特番みたいなお祭りさわぎの状態を引き出すのとは、ちょっと違う。淺井が真につながりをつくっているのは、その「場所」だ。人は、その場所に含まれると彼は言う。場所というより、街の空間全体を見ながら、淺井は、そこを少しずつ、その場所の魅力を引き出すように、変容させていく。空間が活き活きしてくる。もちろん、お店の人と交渉はする。描いても良いですか、嬉しいねと言う会話は成立する。しかし、それだけでは終わらない。淺井は、真剣にその場所を、淺井が引き継いでいる歴史の一部として、つなげる。だから、場所は、より深く建物を建てた時代よりももっともっと深く古い時代とつながりを一瞬持つのだ。それによって、場所は、かつてない一面を見せ始める。ポテンシャルをあげる。そのことを感じ取った人が無意識ながらそれを喜ぶのだ。こういったことは、本来なら、土地の神様をまつる、「祭り」と関係があることなのかもしれない。
 今回描かれたマスキングプラントは、ものすごく長い時間続いた横浜美術館の時とは違い、短期間であるからこそ、より濃い空気と共に、一瞬力強く、寄り添うように存在し、あっという間に消えていった。それは、その場所をよく見て、よりよくしようとする彼の意志を十二分に反映していた。


 淺井がその場所を、太古の歴史とつなぐことによって、場所は息を吹き返し、尊厳を取り戻すのだろう。そうして、そこにいる人もそれを感じ、それぞれの役割や、尊厳、そして生命の源を感じ取るのだろう。彼は、マスキングプラントを通して、少しゆがんでしまった世界に、新しい光を当て、それぞれの伸びる先を少しだけ、ヒントのように人々に見せていくようにみえる。それは、淺井にとっての制作であり、仕事であると同時に、アートであるということ以上に、彼が太古の記憶に負っている役割なのではないだろうか。彼は、太古の歴史のエネルギーの固まりに守られ、動かされているのと同時に、その歴史にとって自然なエネルギーの流れを、現在の仙台に、日本に、あるいは、世界に見せようとしているように思える。そんなに大げさなことではないよと、淺井には言われるかもしれないが、淺井が描くことの中には、現在分類されるような、アートとか、現代美術とか言うくくりだけには収まらない、なにかが紀律しているし、街ゆく人々は、街に住む人々は、その人間本来が持つ紀律に、反応を返しているようにみえる。

 その意味においては、アートというくくりはとても狭い。淺井は、「描く」だけだ。それは、便宜的に現代美術というくくりにいれられ、いろんな形で、作品の発表の場を持っている。しかし、彼の活動の全般を俯瞰してみると、淺井は、いつも一人の人間として、正しいと感じることをなるべく行おうとしているようにみえる。淺井は、2011年の2月インドに行って制作し、その後、インド東南部にあるワルリー画のリサーチをしている。その報告(今日は今日 淺井裕介ブログ)より少し引用しよう。

彼らの絵を彼らの暮らしの中で見ることができる素晴らしさ、とそしてゆっくりした時間の中で語られる言葉は本当に素朴で素敵な話ばかりで、ワルリー の人たちの生活の大切さ、それを守ろう(伝えよう)といういつどこの世界でも変わらない「これまで引き継いできたものをよりいい形にして伝えないといけない」という当たり前だけど大切なものに触れることができとてもうれしくなりました。

電気さえ満足に来ていないような場所でも絵を描いている人がいて、ものを作ることを真剣に考え、哲学を持って新しいメッセージを必死に残しているということが東京の僕たちと全く変わらず(時としてそれ以上に最先端で)そのことも嬉しかったです。

電車の中を飛ぶテープ鳥


インドネシアでのマスキングプラント ©細川葉子


淺井誓とのユニット「緑の葉っぱ」の作品 この作品シリーズは誰でも真似できるような素材、方法を使って作られる。淺井の基本精神に通じる。


 この感想にも見られるように、淺井は、日本の現代美術が持っているものの遙か先で動いている。それは、わずか100年弱の歴史しかもたない現代美術を根拠にして活動しているのとは全然違う。彼の活動は、もっと目に見えない、大きく、古く、確かなものに、支えられている。それはもちろん、現代美術というくくりの中でも機能するけれど、それ以上に、人間にとって必要であり、人間の紀律を基準にしているのではないか。それ故に彼は、街に描くことを許され、続けられ、これだけ多くの人に愛されるのではないかと思う。

 おそらく、彼にとって、絵を描くことは、自己表現ではない。あまつさえ個性の表現でもない。「描きたいから描いている」という説明しかできなかったその活動は、根拠をどんどん明らかにしていっている。そしてそれは、予備知識の背景を必要としない鑑賞を可能にしている。人に対して開かれている。淺井の作品を見るにあたって必要な要件は、その人が人間で目が見えると言うことだけである。それだけ大きい範囲の人々に彼は発信している。これだけ力強い作品が、今、日本に、世界にどれくらいあるのだろうか。わたしは、お店の人々が寄せた感想を読むにつけ、見せた笑顔、言葉を感じる度に、淺井の作品の可能性について、その大きさについて人並みならぬ感動を抱く。

 今回の活動には、二つ別な側面があり、ひとつは、多くのボランティアが関わったことであり、もうひとつは、仙台市の文化団体の事業のひとつとして街中でおこなわれたことであるが、そのなかで、ボランティアがとてもたくさん関わったことは、淺井の制作にも大きな影響を与えている。このことについては、次回の記事触れることにしようと思う。
 今回取り上げた、マチナカアートで描かれた作品の一部は、未だ仙台市の一番町に残されている。是非見て欲しい。




ワルリー画 淺井撮影


群馬近代美術館での淺井の泥絵代表作


大阪 阿倍野パウダールームでの展示 淺井代表作 ©泉山朗土

東京と現代美術館で行われた共同制作「根っこの森」から標本。これは、淺井ではなく、参加者が共同して制作した作品。これについては次回触れる。

 
著者のプロフィールや、近況など。

田多知子(ただともこ)


2002年東京芸術大学卒
仙台市在住

いつもゆっくり小さく活動しています。

自身サイト
http://members2.jcom.home.ne.jp/t_tada/rin/





topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.