1階の展示風景
うずいちスタジオの展示風景
アトリエ家ーの展示風景
桂スタジオの展示風景
GURAの展示風景
|
アーティストは孤独と戦うべきか、集団で活動するべきか。
美術史を振り返ると、アーティストの軌跡は、結果として「集団」でいるほうが強さを持っているようだ。
例えば「具体」。
関西を地盤とするアーティスト集団である。
昨年からニューヨークのMoMAやグッゲンハイム美術館で回顧展が開かれた。
おそらく白髪一雄だの、田中敦子だの、と際立って挙がる作家の個展は、開かれないだろう。
彼ら以外の初耳作家も含めて、「具体」の一員だからこそ展覧会が行われたのだ。
こうして考えると、集団であることが「良い」「有利」と思いがちである。
しかし実際はどうなのだろうか。
「●●派」や「●●イズム」のような運動体、それはただ群れている集団ではない。
何かしらの方向性や意志を共有し、次のアートシーンをつくり出すために、集団を成していたのではないだろうか。
京都市立芸術大学ギャラリー
@KCUAで開催された展覧会は、京都市内にある17のアトリエで制作を行う88人の作家を紹介する、というもの。
まず、アトリエも作家の数も「そんなにいるのか」と思ってしまった。
私たちのようなベビーブーム世代は「美大卒」の人数はいたけど、コマーシャルギャラリーがなかったから、自然に淘汰されていった(いっている)。
美術大学批判論はあるけれど、コマーシャルギャラリーに所属する=就職するような永遠性をつくったのは、2000年代のアートマーケットの隆盛のせいである。
そのころできたコマーシャルギャラリーはその数だけ、お抱え作家の数も増えて行った現実。
しかし今では、ギャラリーに所属してもしなくても、「美術館で発表する」ような次の展開は見当たらない現実。
別に美大を出てるからってアーティストになる必要もないし、向いてない人も多いはずだ。
アトリエという「つるむ場所」にいること=美術業界にいる気になれる、という現実は、いかがなものか。
そして、「彼らは何をしたいんだ」と疑問だったことがいくつもあった。
もはや会場はジャンルや色・かたちを判別できないごった返しの状態で、作品を見せる場ではない。
かといって、1/10スケールのアトリエを会場に展開しました、という間取りでもない。
「具体」や「フルクサス」や「未来派」やアレやコレのように、ポリシーを持って、美術を通して活動をするときに集団であるべき、というふうには見られない。
アトリエという「みんなと一緒」にいること=良くも悪くもならない、という現実は、いかがなものか。
2013年のたったいま、世の中が「きずな」とか「つながり」を大切にする風潮でもある。
アートマーケットのような場で、海外のギャラリーや作家と「売れる」という基準で「たたかう」こと。
国際展のような場で、海外の作家やキュレーターに「企画」というフックで「受け入れてもらう」こと。
もしアーティストがどちらかを望むなら、孤独覚悟で、次の道へジャンプすることが必要なのではないだろうか。
「何か」を生むアーティスト、「〜系」でくくられないアーティストになるならば、早くアトリエを捨てて飛行機に乗ってほしい。
そんなことを思ってしまった展覧会であった。
とはいえ、10年後「あのアトリエがヴェネツィア・ビエンナーレに出品」というグループになることも、期待はしているけれど。