見たことがあるとかないとか
ということ
TEXT 藤田千彩
ここ数年、彫刻・立体の作品はいくつかの「パターン」が見られる。
そのパターン、つまり、いま多い作品形態の展覧会なら、既製品をつかうだろう。
逆に、素材に忠実な、つまり、王道の彫刻であれば、鉄や木といった彫刻として純正の素材を用いるはずだ。
あるいは彫刻家と名乗りつつ、映像や音といったメディアの発表をするかもしれない。
河合勇作が銀座のギャラリーSOLで見せた展示は、そのいずれでもないが、どれもあてはまるものだった。
壁にプロジェクションされた映像だけ眺めていると、違和感を感じた。
河合は映像作家ではないし、空間が一面に区切られていて、インスタレーションと呼ぶには、狭い。
投影されたエスカレーターの階段部分が盛り上がっている。
近づくと、映像の中にある階段部分の形をした金属が貼られていたのだ。
それはささいな出来事、とでも言おうか。
あるいは大きな発見、かもしれない。
美術史をひもとくと、絵具の置き方ひとつ、木の彫り方ひとつで、時代がつくられている。
普通に金属をたたいたり、削ることでも作品はできる。
人体像といっても、具体的な像から抽象的なものまで、かたちは広い。
映像も同様で、アングルを変えたり、編集で色に変化をつけることで個性が生まれる。
そこの部分を加味しても河合の仕事は絶妙だった。
「加工」という手仕事に頼ることなく、映像だけを見せるのでもなく、このふたつのメディアが引っ張り合う空間。
ズレることで気付くこと、ハマっていると気付かないことを教えてもらった気がした。