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この夏、上野の東京都美術館は、フェルメール作《真珠の耳飾りの少女》を目当てに「マウリッツハイス美術館展 オランダ・フランドル絵画の至宝」に押し寄せる人々で連日の賑わいを見せた。筆者はマウリッツハイス美術館展の最終日間際の9月中旬に同館を訪れたが、エントランスから館外にまで飛び出す長蛇の列はなかなか圧巻の光景で、残暑の天候と相俟った熱気に包まれていたのが印象的だった。しかしここで取りあげたいのは、同じ美術館の公募展示室で空前絶後のフェルメール・ブームとは別種の熱気を放ったひとつの展覧会のことである。その展覧会とは、工房集作品展「生きるための表現」だ。
今年4月のリニューアルオープン以降、東京都美術館が「都美セレクション グループ展公募」なる企画を開始したことをご存じだろうか。これはグループ展を対象とした公募企画で、審査会によって選抜されたグループは館内展示室で発表の機会を与えられる。「生きるための表現」展は、この公募企画を通過した「工房集」のメンバーによるグループ展というわけだ。(画像a)
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埼玉県川口市に位置する「工房集」は、社会福祉法人みぬま福祉会を母体とする知的障害者のための施設である。設立は2002年。缶プレスやウエス作りの仕事がどうしても合わなかった仲間たちが絵画や織の制作だけには向き合ったことをきっかけに、表現活動のための環境が次第に整えられ、いまでは法人全体で100名超のメンバーが表現活動を行っているという。メンバーによる作品の発表も各地で活発に展開されており、たとえば最近では、今年の6月にマキイマサルファインアーツ(東京、浅草橋)で開催された工房集の男性メンバー8人によるグループ展「Deep Impact ディープインパクト by 工房集」などが記憶に新しい。
個々のメンバーが活躍する一方、東京都美術館における「生きるための表現」は、みぬま福祉会全体から集まった総勢118人ものメンバーが参加するという大規模なもので、工房集の活動と理念を総括的に伝えるまたとない機会となった。訪れた人はまず、切実かつ精彩あふれる作品群に魅せられることだろう。そして、これだけ多様な表現がひとつの工房から生まれたという事実にも驚かずにはいられないはずだ。絵画、立体、ステンドグラス、織り、写真、漫画、詩、書――。ひとくちに絵画といっても、画用紙、ベニヤ板、さらには紙箱の蓋まで、選択される支持体も実に様々である。しかも、各自が辿り着いた表現手段や媒材が、あたかも運命を錯覚させる偶然の出会いのように、然るべきものとしてそこにあらわれ、彼・彼女らの表現の支柱となっているのだ。(画像b)
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展示の最後では工房集の活動理念が壁面に掲げられていた。いくつかをここに紹介したい。
「一人ひとりの時間が流れる空気感をつくる」「『もうこれしかできない』。究極の想いを受け止め、一人ひとりを大事にすること。」(註1)
つまり、既存のスタイルを倣わせたり同一の作業を全員に行わせたりするのではなく、個々人が本当にやりたいこと、必要なことを、サポートスタッフとともに模索していくという方針である。これを実践するのは決してたやすいことではなく、現実には多くの労苦が伴うものと想像される。しかし、工房集のメンバー、スタッフ、そのほか工房に関わる様々な人たちがこの理念を真摯に追求しているであろうことを、「生きるための表現」展は証明しているのである。
個々人の表現を尊重する姿勢は展示の工夫にもあらわれている。たとえば金子慎也による紙粘土作品《にぎり》。これは手のひらにすっぽり隠れるくらいのサイズの紙粘土のかたまりを、にぎり寿司のようにぎゅっと丸めていくつも並べた作品である。金子が先駆けとなってはじめたという《にぎり》の作品は他のメンバーによっても同様に実践されており、《にぎり》のひとつひとつには木片の台座が用意されている。これらの台座は《にぎり》を「芸術作品らしく」見せるためにあるというよりは、粘土を握ったり丸めたり指先でこねたりしたその都度の行為を分節し、祝福しているかに見える(ここに同じ《にぎり》はひとつとしてない、ひとつひとつが他に代わりのきかない《にぎり》である、というかのように)。
それから、ダンボール製の小さな箱を定規を使わずカッターとガムテープのみで成形する和田良弘。彼の作品《ワンダーボックス》を「すっきりとした規則性」「最小限のファクター」といった特徴から「ナチュラルミニマリズム」と形容したのは工房集のアートディレクターを務める美術家の中津川浩章だが(註2)、壁面に取り付けられた《ワンダーボックス》は、たとえばドナルド・ジャッドの工業製品風の箱などとは対照的な手仕事の痕跡、そして素朴さと鋭利さを同時に湛えている。また周囲の空間に緊張感を漲らせるその存在感にふさわしく、東京都美術館の穴あき壁への直接の設置ではなく、白塗りのベニヤ板を間に介在させるという処置がとられ、ホワイトキューブ的壁面への展示が演出された。極めて個人的な格律に従って生みだされる《ワンダーBOX》の内なる声を伝えるには、静かに沈黙する均質な「地」が必要なのだと、この仮設壁面は見る者に告げるかのようだ。(画像c)
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表現の契機は人によって様々だ。「社会」に馴致されない領域、たやすく他所には明け渡せない内面が、攻撃的なかたちをとる場合もあるだろう。しかしそうした閉鎖性や攻撃性が表現活動として昇華されることもある。そんな思いを抱かせるのが、横山涼による一連の作品だ。彼の代表作ともいえるのが木を素材とする立体作品「ヒコーキ」である。(画像d)
これはベニヤ板を糸鋸で切り分けペンキで塗装するという手順をとったもので、作品ごとにボディの形態を変えていく巧みな造形性が目を引く。刃の切っ先を思わせる両翼や荒々しく突き出たパーツが近寄り難さを醸し出しているのも確かだが、その攻撃性が生命を強く肯定する力へと転じているおかげか、見ているこちらまで不思議と活力を得てしまうのだ。
また本展では、横山が「ヒコーキ」シリーズ以前に手掛けていた木製の箱のシリーズも展示された。この箱のシリーズも外界への攻撃性を包み隠すことなく前面に押し出した作品である(画像e)。内部から打ちつけられた釘の先端が外側に向かって飛び出している箱、南京錠で厳重に鍵をかけられたり電気コードを通されたりした箱、そして外面にドクロマークなどのドローイングがほどこされた箱。その毒々しさに似合わず「多目的BOX」などと書かれた箱が展示されている一方、とある箱には一字ごとに色を違えたカラーマーカーで、「決して売り物ではない」という警告のような文言が記されていた。明確な誰かに対して宛てられたというよりは、世界のどこにも落ち着きを得ず、刃のようにとんがって見る者すべてに突き刺さる詩のような言葉。個人的には、外部の世界と拮抗する作品としての「構え」がこの文言に集約されているように思えてならなかった。
ステンドグラスの色板をいくつも連結し、複雑かつ突拍子もない軌道の「ジェットコースター」をつくりだす伊藤裕。真っ白な紙の中央に車いすや消防車、自転車などを豊かな観察力とユーモラスなデフォルメで描き、強い求心力を画面に発生させる佐々木華枝。笑顔いっぱいのキャラクター「茶太郎」のドローイングで紙一面を埋め尽くしてしまう田中悠紀。《スパゲッティ》と題された作品でカラフルなビニールテープをダイナミックに盛り合わせる緑川悠貴。言及したい作品は他にもまだまだある。
生命力の発露をダイレクトに感じさせる作品が無条件に「素晴らしい」のではない。「いま、自分にできること(自分が伝えたいこと)はこれなのだ」という表明がぎりぎりのかたちで具現化されているからこそ、私たちはこれらの作品に胸を打たれるのだ。そして彼・彼女らの表現は、私たちがふだん、「美術」というひとまずの名で呼んでいる閉鎖的な圏域を突き抜けた場所にある。本展のタイトルが「表現のための表現」ではなく、「生きるための表現」であることを改めて思い起こさずにはいられない。人はなぜ表現するのかという命題には、何度でも立ち戻る必要があるのだ。
註1 工房集の活動理念は『工房集コンセプト・ワークブック10』(工房集+フィルムアート社編)にまとめられている。
註2 「Deep Impact ディープインパクト by 工房集」(マキイマサルファインアーツ、2012年6月15日〜6月26日)の作家紹介テキストより