夏の日差しがまだ強さを残すある日、女子美術大学の学生達の個展「夏展」にお邪魔した。
毎回横浜市内のギャラリーでの作品展示の形なのだが、今回は一般施設に作品を展示しアート空間に変えてしまおう、という試みが行われていた。場所は横浜市の「フォーラム南太田」という、いわば町の公民館であった。展示には2点のコンセプトがある。ひとつは、「施設と展示作品との共存」だ。例えば「施設内の備品である日よけカーテンの一部を"作品化されたカーテン"に変える」などの方法で、実用性を伴った作品を作ることだ。もうひとつは、今回の震災という災害に対して、「アートによる創造的な作品ができないか」ということであった。災害という現実的な衝撃が若い感性にどのような影響を与えたのか、気になるところである。
個展に参加した7人の学生達に話を聞いた。
上田の作品「境界の影法師」は、天井付近の窓に吊るされた日よけカーテンを作品化したものだ。半透明のオーガンジーの素材をキャンバスに描かれているのは、自分を含めた参加者5人にそれぞれ描いたもらったという、「自分にとっての大切な人」だ。この発想は、テレビで「震災で身近な人と離ればなれになった人々の様子」を見て、「自分にとって本当に大切に思う人を再認識する方法」として有効と考え、この表現に至った。透けた素材に描かれた人影...ゆらゆらと揺れ、まるで陽炎のようだ。大切に人を描くとしながらも、実体ではなく影として描いているのはなぜだろうか。それは大切に思う人の姿を描く形よりも、"大切な人を思う気持ち"を出発点に、影を通じて大切な人を探り出す方法のほうが本物の大切の人に至れるとの思いからのようだ。それは一人砂漠でさまよい、人恋しさから目の前に陽炎が現れた時、オアシス的存在として誰の姿が現れるか、という感覚なのかもしれない。「幽霊に影がない」といわれるのも、実体があるように見えて存在しないからだ。この作品は「自分にとって大切な人であればあるほど、密度の濃い影がついている。その真黒な影の中から輪郭が出てきて、自分の本当に大切な人が姿を現わす」と伝えたいのではないだろうか。
佐川幸里恵《痛み》
橘川由里絵《くじらのみたゆめ》
|
佐川の作品「痛み」の着想は、テレビで見た「震災の犠牲者の遺品探しで泥まみれの汚れた衣服が並べて干してある」VTRからだ。さまざまな年齢・立場の汚れた衣服が並ぶ様子から、「子供から大人に至るまで役割に応じてさまざまな服を変え、日々服を汚しながら年を重ねていく」という現実を印象深く感じた。そこで過去に着た服として子供服、未来に着るであろう働くための服としてYシャツを用意し、絵具等で汚しを入れ椅子の上に重ねた。はじめは真っ白な服を、日々汚しながら生きていく我々...。その汚れとは、津波で犠牲で汚された服のように、不本意に社会の汚れに染まらされたりして、何かの犠牲になった証拠なのではないだろうか。さまざまな役割を演じその色に染まり、死ぬ時は汚れた服を脱ぎ捨て自由になるのだろう。しかし汚れはリアルさを生むことも間違いない。例えば建物の絵を描いたら次にするのは汚しや影を入れていく作業となるだろう。そうでないと平面的で現実味がないものとなってしまう。いわば犠牲となり汚れにまみれてこそ、現実的な美しさを獲得したといえるのではないだろうか。そんなことを感じさせた。
橘川の作品「くじらのみたゆめ」には、震災で暗くなった人の気持ちを明るくできたら、との思いがこめられている。石膏で作られたファンシーな形の数10体のジャンボジェット機の模型が壁に貼り付けられている。その中に一体のクジラがまぎれているという間違い探しの要素を含めたもので、発見した時の楽しさから作品に引きこまれる。クジラが持っているかもしれない「ジェット機になって空の大海原を泳いでみたい」という思いを表現したファンタジー。鳥ならまだしもクジラと飛行機では関係性がないように思えそうだが、ボーイング社の一号機が造船所で作られた飛行艇からジャンボジェット機の歴史が始まったことを考えると、宇宙戦艦ヤマトではないが、海を泳ぐクジラが海から飛び立ち空を飛ぶ飛行機になるという設定は、リアルなメルヘンであるといえよう。また昨今の揺れ動く不安定な地面に対する不安から、空を飛んでいるクジラのような存在を見ているのは明るい気分になることも確かで、そのことが本作品の明るさを際立たせているといえよう。
芝愛弥葉《Period of Window》
芝の作品「Period of Window」は、自分が原宿の町で撮った建物の映像等をパソコンに取り込み、CGソフトで窓をマスクにして、別撮りした花火や祭りの映像を画像の挿入させた映像作品だ。それを壁をスクリーンとしてプロジェクターで投影している。静的な建物の様子とは対照的に窓に展開される、華やかながらもすぐに過ぎ去るはかなさを湛えた夏の映像...。そんなシュールな内容の繰り返される映像が、自作のシンプルな音楽と相まって、「繰り返しループして見せられている真夏の白昼夢」といった印象を与え、心地よい静けさを味わえる。真夏の公民館内を涼しげな空間に変えていた。
齋藤有希《助けを求める手》
|
齋藤の作品「」は、震災からインスピレーションを強く感じる作品だ。"荒縄で乱雑に縛られたいくつもの手"が、まさに"震災被害を受け船が出せなくなり、錨を結ぶ縄で縛られ身動きが取れなくなっている東北の漁師の姿"をほうふつとさせる。しかし被害者的な弱さや悲観さは感じられない。むしろ強く縛られるほどに手に力が加わり、その力を己の力に変換させ、さらにたくましく強くなってゆく「男の握りこぶしの美しさ」を表現しているといえよう。しかしこの作品、震災とは関係のない、女子美大の入試のために必死に作品作りにはげんでいた時に作ったものなのだという。"追い詰められた必死さ"の普遍的な表現の形といえるのかもしれない。
前田の「trance」の作品作りは、"館内の男性トイレと女性トイレの間の空間に置く作品"という条件が前提にあった。そこで"中性"をテーマに決め、「性の芽生え始めた、2つの性の間を揺れ動く年頃の男の子」をモチーフにして描いた。作品中にはいくつもの"逆転"がある。男の子が女の子のランドセルを背負っている、しかし女の子ではないので逆さに背負い、そのため中身がこぼれてしまっている、子供のはずが大人を通り越して巨人化している...。子供の性の芽生えとは、子供にとってはそれほど大きな、天地が逆転するほどの大逆転である、ということを上手く表現しているように思えた。また作品のコンセプトがわかりやすいこともあり、トイレの使用者に、一時の"中性"という深い意味を持つ性質について考えさせる時間をもたらしている可能性を感じた。
前田芽美《trance》
|
北澤麻伊子《海に祈る》
|
北澤の作品「海に祈る」は、震災の津波をテーマとしたものだ。彼女はとにかく「海は恐ろしいものだ」と感じ、そんな巨大で恐ろしくどうしようもないものに対しては、祈るしかない、と感じ、犠牲者の魂への祈りを表現した。2人の女性の母性の力により、海の恐ろしさを沈めているのだという。2人の祈る女性の姿が、後ろの風景と重なるシンメトリーを作っている様子に興味を持った。2人の女性の重なった手や頭が太陽に、揺らめく髪とスカートのすそが波打ち際に重なるように見える。「太陽と海の姿を自らの姿で表現し一体化できる女性こそが海に祈る存在としてふさわしい」といった印象を覚えた。なんだか自然宗教の祈りを表現した、古代に壁画のシンボル化された「祈りの様子」の描写を見ているかのようだった。
今回の公民館における作品展示から、日常空間にアートの彩りを添えることの可能性を強く感じた。また色んな人が出入りする空間だけに鑑賞者の作品の好みはあるだろうが、アーティストにとっても自分独自の視点をいかに一般の人にできるだけわかりやすく表現するかということを学生達が学ぶにはいい機会だと思った。
上田聖美《現在地球に接近している小天体から地球をまもる計画》
|
さらにギャラリー「on the wind」に展示されていた、5人の学生達の作品を紹介しよう。最初に紹介するのは、前出「境界の影法師」の上田だ。今回も震災に関係する作品となっているが、そのテーマに対する強い動機の理由がわかった。広島出身の彼女は、父母両方の祖父母が被爆している被爆三世なのだという。彼女にとって、"爆弾を落とされたかのように平らになり放射能がまき散らされた被災地の惨状"は、彼女の平和教育の過程で学ばされた当時の広島の惨状と重なったという。その彼女が挑戦した60号の大作のタイトルは、「現在地球に接近している小天体から地球をまもる計画」だ。津波が引いて、残されたのはゴミの山と放射能に汚染された土地...、そんな絶望的で八方ふさがりの状況を、リアルな風景描写と人物のポーズで表現している。そんな人々の中で希望の未来へと導こうとする人物が中央に描かれている。しかし"絶望的な状況を救おうとする救世主"という設定だと、震災がテーマの作品としてはありきたりな印象を与える。しかしこの人物は津波や放射能から人々を救おうとしているのではない。引力により津波に影響したとされるエレーニン彗星という天体の衝突から地球を守ろうとしているのだ。ところがこの彗星の影響はデマであり、そのデマに惑わされた実際のNASAの「地球をまもる計画の実行者」のイメージからこの人物を描いている。彼女はこれにより、NASAのような大規模な政府機関でも人智を超えた災害を前にすると、デマに惑わされる弱い存在となるということを描こうとしているのだ。たしかに「人智を超えた災害によりもたらされた絶望的な状況」の前では、ジャンヌ・ダルクのような救世主像は非現実的でわざとらしい。どうしようもない状況の前では人間は慌てふためくしかできなく、知的な人たちでさえデマに惑わされコミカルな救世主に成り下がったりする...。このような表現のほうが、「震災後の様子」の描写をリアルに描いているといえよう。
室井麻未《窓》
齋藤美沙《いつか石になったとき》
|
塩山晶子《ころころとくらす》 |
岡華子《日食のヴィーナス》 |
室井の作品「窓」は、彼女の内省的な感覚を表現したものだ。ある夏の日、家の中から見た窓から強く感じたこと...、それは「内と外の境界線」という感覚だった。そしてその境界線の空気感を表現を試みた。左端に描かれた窓から差し込んだ、太陽光と思しき黄色のベース色の上に、青・白・赤などの様々な色の、直線や曲線や波打つ様々な形が塗り重ねられている。これらの色や形は窓の外の移り変わる風景に影響を受け部屋の中に現れる、光の反射や陰などと想像できる。しかし壁に現れたものをそのまま描いているのではなさそうだ。彼女によると「作品は自分が描くのではなく眼前のモチーフに描かされて描く」のだという。「対象物に憑りつかれて描いている」という、一種の超常的な感覚なのだろうか。すると五感で知覚できる以上のものを描いている可能性も考えたくなる。青や白の図形などは、窓から見えた青空やその反射して差し込んだ光と理解できそうだが、中央の書きなぐられた赤などは何なのだろう。窓の外から入り込んだ何かの強烈な印象を描いたものなのではないだろうか?例えば自動車のけたたましい急ブレーキの音...もしくはにぎやかな子供たちの歓声...または強烈な真夏の日差しが与えるけだるい不快感...、そんな想像をかきたてられる。感覚を鋭くすれば、窓の外から入り込む家の内部への干渉は思ったより大きいことがわかるようだ。"夏のある日"の描写を、直接的ではなく窓から入り込む家内部への干渉として描く感覚はとても新鮮で面白いと思った。境界線であることにより、間接的で微妙な独特の感覚を与えるのだろう。
齋藤の作品「いつか石になったとき」は、自分の大切な人を思う気持ちを結晶化させたものだ。それがライムストーンを彫って再現された"石の心臓"になった。この作品誕生のきっかけは、幼少のころ、祖母に抱っこされていた時のこと。祖母の胸から聞こえてくる心臓の音を聞いて、怖くなって泣いてしまったという。それは規則的な心臓の鼓動を聞いているうちに、「いつかは止まって祖母は死んでしまう」ということを予感し、永遠に自分に愛を注いでもらいたいと思っていた幼少の自分にとっては、その事実を信じたくなくてショックに感じたのだという。その思いを思い出して作ったのが石の心臓だ。そう聞くと、はかない人間の心臓のようなものではなく、壊れにくく硬い石の心臓を作ることによって安心感を得たい気持ちがもとで作ったもののように思えるが、そうではない。彼女によるとあらがえない死という事実を受け入れた上で、死後の心臓の形を石によって記念として再現するという、いわば石の記念碑的意味合いのイメージなのだという。また死んで
石になってしまった、化石化した人の体から石の心臓を取り出すイメージも含まれているのだ。一般的にはわかりづらいが、最近死体を目の当たりにし触れたりした自分にはわかりやすい。死後硬直のせいか、死体は石のように固くなるのだ。その化石化したのような印象の死体から本人の心臓を記念に掘り出すというイメージは共感できる。死を受け入れた彼女の石の心臓を触らせてもらうと、思ったより柔らかい感触がした。
塩山の作品「ころころとくらす」は、作品のコンセプトがわかりづらいが、気になる作品だ。それは仮想現実的な、ノンフィクション風のフィクション的なコンセプトによるものだ。「彼女が部屋で絵を描いていた時、筆洗い用の水を取り換えようと、入れ物を手にして立ち上がった拍子に、不意にベットにこぼしてしまった。そこで汚れを落とそうとしたが落ちなかったため、新しいシーツを買いに行った」という。そんな説明を彼女から聞きながら「ホーッ、なるほどこれがそのシーツか...」と思わず眺めていたが、それが作り話だと聞いて、不思議な驚きを覚えた。なぜなら設定があまりにもあり得そうで、疑う余地もないものだったからだ。そして特に好奇心をそそられることもない、何気ない地味なハプニングを作品にしてしまうという作者の心理が気にかかった。彼女はこのような"いかにもあり得そうな話を本当にあったことと思い込んでもらう作品"を作るのが好きなのだという。なんだか少し前にはやった映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のような、フェイク・ドキュメンタリー的な感覚を思い出したが、この作品のほうがよりリアルだ。このような"作らないで作ったような作品"の感覚に、特別な存在価値があるような気がした。彼女は「あまり自分の作品を作る気がしない」とも言う。しかしそれはやる気がない、ということではないように思う。哲学的な話ではないが、「無為にして為す」というような、創作の動機の根源的な領域にある表現のひとつのように思えた。「創作とは何気ない身の回りにあるものを作品にすることで十分で、モチーフは遠くではなく近くにある」。そんなことを伝えている感じがした。
岡は「日食のヴィーナス」という、架空の神の存在を表現した。一般的に太陽の神は男性神で、月の神は女性神と言われるため、太陽が月に隠される日食現象を、雌雄同体という両性生物のカタツムリを背負った女性神の形で描いた。カタツムリという軟体動物は、ほとんど水分出てきていて、蒸発するとすぐに死んでしまうはかない存在。太陽と月の合一して見えるこの天体現象は偶発的なハプニングだ。存在しているようでしていないという事実がお互いに重なる。また殻のらせん状の渦巻きが宇宙の星雲の姿や宇宙最大の謎のプラックホールを表現しているようで、カタツムリが深い生き物に思えてくる。両性の合一しているという稀有な性質を持つことが、深い意味をはらんだ生物へと変えたのかもしれない。
今回の展示では震災がテーマのものが多かったが、極限の状況を体験して生まれた作品は、平時に生まれたものより、変革的な要素を含む可能性があるといえるだろう。今回の展覧会でその一端が見えた気がした。