エフェメラルな空間の詩学
※ephemeral:つかの間の、儚い、一時的な
TEXT 高嶋慈
5人の若手女性作家によるグループ展「have a place−むこうの方−」が、神戸アートビレッジセンターで開かれた。5人はいずれも、京都の元立誠小学校で昨年度に開かれた「humid」展の参加メンバーに含まれている。「humid=湿気の多い、多湿の」というタイトルが示すように、窓ガラス越しに感じられる光や風の揺らぎに寄り添うような繊細さを宿した作品や、元小学校というノスタルジックな場への思いがこめられた作品などが出品されていた。今回の「have a place」展では、「場への意識」により焦点をあてて作家数を絞り、5人による再構成という形で展開された。
彼女たちの表現は、絵画、映像、インスタレーション…と表現媒体こそ異なるものの、会場を一回りすると、共通した空気感がしずかに立ちのぼってくるのが感じられる。色で言うと、みずみずしいグリーン、淡いブルー、白、そして透明さ。けばけばしく攻撃的な原色やどぎつい蛍光色の響きは、ない。通奏低音のように感じられるのは、季節や時の移り変わりや、場所との一回限りの関わりといった、過ぎ去っていくものの中の美しさを慈しむような視線であり、作品が一つの「場」になる、あるいは仮設的な「場」を構築することで、そうしたつかの間の美しさを拾い上げようとする姿勢である。
右壁面:川口淳子、左より《蔦のドローイング1》《蔦のドローイング2》ともに2010年、アクリル絵具、キャンバス/《アンプリファイ―蔦―》2010年、アクリル絵具、木、金具/《untitled》2010年、アクリル絵具、キャンバス
左:柴田さやか《拡散する小径にて》2010年、オーガンジー、糸、光
手前:菅本祐子《水滴》2010年、ナイロン糸、ガッシュ、アクリル板、トレーシングペーパー、水
例えば、川口淳子の絵画においてモチーフとなるツタや鳥。単純化された形、丸みを帯びた伸びやかなストロークで表現されることで、湾曲したツタの蔓が描く曲線は、鳥の足のようにも見えてきて、両者の形が呼応する。川口は、「一つ一つの作品は単体だが、つなげて空間の中に置くことで、一つの風景が出来れば」と語るが、真ん中に置かれた、ツタの形を大きく切り抜いた作品は、鳥とツタ、両者の間をつなぐ役割を果すとともに、文字通りホワイトキューブの壁をつたって生い茂っていくような、生命の力強さを感じさせている。
柴田さやか《拡散する小径にて》2010年、オーガンジー、糸、光 |
柴田さやかの《拡散する小径にて》もまた、植物をモチーフにしたものだ。白い花びらのような形の連なりが投げかける影は、この場限りの儚い「壁画」として現れる。梅雨の曇り空の下を訪れたこともあり、私は初め、これはまだ色づく前のアジサイの花をかたどったものかと思った。観客が、それぞれ好きなアジサイの色や記憶の中のアジサイの色を投影して見ることができる装置として。が作家によると、三つ葉のクローバーをイメージしているという。一つ一つの形が集合体として連なっているのは、種が地面に散らばり、そこからランダムに芽が生え出てできた、偶然の形を着想源としているからとのこと。咲いては散り、次の種を残し、また新たな芽が出て成長する―柴田の作品は、散歩中や通勤途中にふと目にするような光景を純化して取り出し、生命の循環という儚くも美しいイメージとして結晶化させている。
菅本祐子《水滴》(部分)2010年、ナイロン糸、ガッシュ、アクリル板、トレーシングペーパー、水 |
菅本祐子の《水滴》もまた、普段は見過ごされがちな自然の営みに潜む美のエッセンスを取り出して見せる点は共通しているが、「鑑賞法」がユニークで面白い。
天井から何本も垂れ下がった青い糸にスプレーで水を吹きかけると、糸に着色された青い顔料が溶けて下に流れ落ち、タイルを模した床面に青い「水滴」が少しずつ形成されていく、というもの。会期を経るに従って、小さな青い水滴の跡は増えていき、観客の手によって時間とともに変化していく作品だ。観客は、無数に垂れ下がった青い糸の中に、落ちる雨水の軌跡を重ね合わせ、床面に刻まれた美しいブルーのドットの連なりの中に、雨音を聞き取り、雨の日特有の匂いや皮膚感覚を感じ取り、雨にまつわる記憶が喚起されていく。それはさらさらと細かい粒子のような霧雨なのか、ざあっという雨音で周囲の音響を消し、私と周囲の世界を切断してしまうにわか雨なのか。いずれにせよ、雨粒の跡は即座に地面に吸い込まれ、あるいは水面に波紋を描き、いずれは太陽の光で蒸発し、視覚的に痕跡をとどめることはない。だが、観客の手によってゆっくりと醸成されていくこの《水滴》の場合、ぽたりと垂れた水の跡は、鮮やかな青となって残り、蓄積していく。青という色は神秘性や悲嘆の色を帯びているため、より象徴的なレベルでは、人が内面からあふれさせた水滴、つまり涙や悲しみの感情が想起されるかもしれない。
このように菅本の作品は、つかの間、現われては消えていく現象を擬似的・抽象的に体験させ、その美しさに改めて気づかせる装置として機能し、変化の過程の中で観客に一回限りの出会いをもたらす「場」となっている。今回は、展示室の一部分のみを使った、1m四方ほどの小規模な試みであったが、今後は、一つの部屋をまるごと使うような、よりスケールの大きいインスタレーションとして展開されたら、また別の風景が立ち上がり、より面白くなるのではないかと期待される。
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