もう一つの「共鳴」― 対話と交感の場が開かれるとき
TEXT 高嶋慈
「レゾナンス 共鳴 人と響き合うアート」と題された現代美術のグループ展が、大阪のサントリーミュージアム[天保山]で開催された。同展は、昨年度の「インシデンタル・アフェアーズ」展に続く現代美術展の第二弾であるとともに、サントリーミュージアム[天保山]が今年12月末をもって閉館するため、同館での本格的な現代美術展としては最後のものになる。
本展覧会の意図やねらいについて、企画者の大島賛都氏はカタログ所収の文章の中で次のように語っている。通常の展覧会の構成のように、何らかのテーマを設定し、その枠組みの中にテーマに沿った作品をはめ込むのではなく、企画者側が用意した特定のテーマに束縛されない形で、鑑賞者がそれぞれの作品と対話できる場を提供すること。そしてそのような生き生きとした鑑賞体験が、会場内を進むに従って連続して起きること。作品が伝える視覚的、聴覚的情報を通して、作品と鑑賞者との間に成立する内面的な共振、共鳴作用―それこそが、タイトルにある「レゾナンス 共鳴」の意味するところなのだ。
実際に会場内を歩いてみると、そうした共鳴作用がもたらされるよう、個々の作品は慎重に練られたプランに基づいて設置されていることが分かる。例えば、展覧会冒頭。期待を静かに高まらせるプレリュードとして、ほの暗い湖畔の風景や、生命の樹を思わせる赤く燃え上る形象を描いた、イケムラレイコの内省的な絵画が提示される。第二室では、滲んだ筆致の中に情念と崇高さをたたえたマルレーネ・デュマスの絵画作品が続く。性愛や死といった、生々しくも本質的なテーマに迫るデュマスのポートレート作品からは、剥き出しになった身体のか弱さと内面的な強さとが拮抗した、人間の根源的なあり方が浮かび上がってくる。
次の暗いプロジェクションルームに入ると、一転して、鑑賞者は暴力と不条理の渦巻く世界に対峙させられる。ポール・マッカーシーの映像作品《Cultural Soup》。父親を演じる作家本人が、可愛らしい子供の人形にマヨネーズを塗りたくり、両手でしごき続けるという、ショッキングな映像だ。平和で健全であるべき家庭内で起こる、子供の虐待(それも性的な)に言及しつつ、我々自身の内に潜む、幼児性や残虐性について問いかけている。さらに順路を進むと、現代に蘇った落武者の亡霊を筋肉の組成や古びた武具にいたるまでリアルに再現した小谷元彦の立体作品、祭壇画のような変形パネルの中で、異形の神々が殺戮(りく)を繰り広げる地獄絵図を伝統的な細密画の技法できらびやかに描き出したラキブ・ショウの絵画…というように、凄惨な世界が観客を出迎える。究極の恐怖という空想の産物が物理的身体を与えられて実体化したものと、架空の神話的世界に仮託して表現された、実世界での宗教や民族紛争がもたらす混乱と悲惨。小谷とラキブ・ショウの作品は、壁一枚を隔てて、鏡合わせのような関係にある。続いて、ゾンビや謎の生物が登場し、ユーモラスで不思議な印象を与える伊藤彩の絵画を挟んで現れるのが、ジャネット・カーディフの《40声のモテット》。これは、40人のパートからなる16世紀の宗教曲を聖歌隊に歌わせ、各人の声を楕円形に配した40本のスピーカーから出力して再現した、荘厳な作品だ。40声全てを聴き取ることは物理的に不可能だが、音域もパートも異なる全ての声が共鳴し合って一つの世界を形づくり、聴く者は至高の境地に全身を浸される。2フロアに分かれた本展のちょうど真ん中に位置するとともに、「レゾナンス 共鳴」というテーマをまさに体現した作品であると言えるだろう。
以上、展覧会の前半部分の構成を概観した。このように統一的なテーマ設定を取らず、鑑賞者の作品経験を重視し、作品同士のゆるやかなつながりや変奏的な効果にのっとった展覧会の構成方法については、批判があるかもしれない。しかし、国内外の計20作家が参加した本展で特に目に付くのは、日本の若手作家の注目すべき作品がピックアップされている点である。従って以下では、展覧会全体についての評というよりは、私自身に「共鳴」作用を呼び起こした3作家―小泉明郎、伊東宣明、西尾美也― の作品にフォーカスする形で書いてみたい。
小泉明郎《若き侍の肖像》2009年、2チャンネル・HDビデオ・インスタレーション
「お父様、お母様、長い間、ありがとうございました。」という厳粛な台詞で始まる、小泉明郎の映像作品、《若き侍の肖像》。小泉はこれまでも、「彼女にフラれる悲劇を味わった男」「田舎の母親を気遣い、電話で会話する若い男性」といった、悲劇的、感傷的なものとして消費されるはずのナラティブに執拗に介入し、その欺瞞的な構造を暴くとともに、カタルシスを求める観客の潜在的な欲望をあぶり出すような映像作品を制作してきた。
本出品作では、太平洋戦争末期の特攻隊員に扮した俳優が、両親を前に決死の覚悟で別れの挨拶を述べるという場面が演じられる。本来ならば、死を目前にした人間の決意や使命感、将来あるべき若者の死という悲壮感、涙ながらの親子の今生の別れといった諸要素が観客の心理に迫ってくるはずの場面。しかしそうした緊張感は、ヴィデオカメラが切り取るフレームの外から聞こえる声―俳優にダメ出しをし、演技のやり直しを執拗に迫る小泉自身の声によって、たびたび中断され、その度に観客のカタルシスは成就されることなく、遅延させられていく。ここで、監督である小泉の「演技指導」は両義的な側面を持っている。「まだ、普通の人だから」「もっと、もっと、侍魂を腹の底からしぼり出して」―注文をつけ続ける小泉の声は、俳優を極限状態に追い込み、特攻隊員が乗り移ったかのようなリアリティを獲得させていくとともに、これが明らかに「つくりもの」であることを示すのだ。見る者は、そうした二重性の中に身を置きながら、演技者たちが真剣になればなるほど、おかしみも増幅されていく、という奇妙な二重感を味わうことになる。最終的に、嗚咽とも魂の咆哮ともつかない声で台詞を絶叫する俳優。彼の至った境地とシンクロし、特攻隊員の「母」の叫び―「行かないでぇー」が突如口をついて出る小泉。どこまでが「演技」で、どこまでが「本物の感情」なのか?という問いは曖昧にされていく。ここでは、監督の指示とそれに応えて試行錯誤を繰り返す俳優とのやり取りをカットせず、むしろ積極的に見せることで、これが虚構であることを暴きつつ、遂には「真の侍」としての「特攻隊のリアリティ」に到達するという逆転劇が成立する。小泉の作品は、特攻隊という微妙な問題を扱いながら、それを悲劇的、感傷的な物語として消費する代わりに、むしろ「虚構」の中にこそ立ち現れるリアリティのあり方について再考を促すのだ。
伊東宣明《死者/生者》2009年、2チャンネル・ビデオインスタレーション
伊東宣明の《死者/生者》は、同様に二面プロジェクションの映像作品であるが、合わせ鏡のように鏡像関係にある左右の画面は、対比的な関係を同時に含んでいるのが第一の印象だ。衰弱し、臨終の床にある老婆と、左右反転した構図で布団に横たわる若い男性。男と女、老と若という決定的な差異が、両スクリーン間の越えられない溝として両者を文節する。
老婆の画面には、病室で横たわる映像に加えて、自らの半生を語るインタビュー映像が挿入される。女学生だった頃のこと、戦時中の苦労話や孫たちへの愛情あふれる思い…淡々と語られる身の上話と、口ずさまれる子守唄。その語りは、反対画面の男性によって、一言一句違わず、全く同じタイミングで反復されていく。あたかも両者が時空を超えて、シンクロしたかのような感覚。あるいは、目を閉じて布団に横たわった男性は霊媒師で、彼の口を借りた霊の語りが、反対の画面に現れたような錯覚に陥る。そして再び病室で床につく老婆の映像が挿入される。聞こえるのは息遣いだけだ。それは、かすかではあるが生きようとする生の証を伝える一方で、その間、男性は何も言葉を発することなく、ただ横たわった身体はモノと化す。我々はそこで、「生きている」はずの存在の中に、逆説的に「死者」の姿を見い出してしまう。映像の中では「死」そのものは描かれず、「死者」は、無言で横たわる男性の身体の中に象徴的に転化された形で現れるのだ。あるいは、老婆の映像を、霊媒師としての男性に召喚された霊がスクリーン上に現れたものと捉えるならば、《死者/生者》と題された本作は、観念的に「死」を発生させる装置であると解釈することもできる。
だが、本作で興味深い点は、映像のレトリックを駆使して、魂の往還を表現したり、擬似的に「死」を発生させる装置であるだけにとどまらない。実は、男性は作家の伊東自身であり、老婆は彼の祖母の生前の姿を(むろん了解を得て)撮ったものである。まだ元気な頃に撮られた、祖母の身の上話のシーン。目を閉じてその語りを反復する伊東。両者の語りが全く同じように同期するためには、伊東は単に文章としての台詞を覚えるだけでなく、祖母の息遣いや発話の際の間の取り方といった、身体感覚も含めて再現することが必要になる。情報のレベルをこえて、祖母の語りが身体化するまで訓練することが求められるのだ。身体化された台詞の反復―それは、身体を通して他者の記憶を共有しようとする試みであり、伊東が祖母との間に開こうとした、一つのコミュニケーションの回路でもあるのだ。
西尾美也《Self Select in Nairobi》(部分)2009年、インクジェット・紙
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西尾美也《Self Select in Nairobi》2009年、インクジェット・紙
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伊東の場合、コミュニケーションの相手は彼自身の肉親であり、語られた記憶の共有という試みを通して、1対1の、それ故に濃密な関係が回復されようとしていた。ただしこの場合のコミュニケーションは基本的に、伊東と祖母という、個人的で限定された関係の中に深く潜っていくものである。では相手が、国も言葉も文化も全く異なる人間と、それも大勢多数とコミュニケーションしようと思ったら、どうすればよいだろうか?まずは両者の間をつなぐ、何らかのツールが必要だ。
作家の西尾美也が注目したのは、「服」という、身近で個人的でありつつ、社会的・文化的な記号として個人の規定に関わるツールである。西尾が行ったプロジェクト《Self Select in Nairobi》は、ケニアの首都・ナイロビで道行く人に声をかけ、お互いが身に付けている服を交換する、というものだ。展覧会場には、声をかけて応じてくれた人と服を交換し、記録写真を撮るまでを収めたドキュメント映像と、「変身」後の西尾と現地の人々を撮影した写真がずらりと展示されている。男女を問わず、36人分のポートレートが、服を交換した西尾のポートレートと並んで展示された様は圧巻だ。Tシャツにジーンズ、スニーカーといったラフな格好に着替えた場合の西尾に対して、ダークスーツにネクタイを締めた西尾の姿は、その服の元の持ち主の個人的な嗜好だけでなく、社会的地位や欲望を如実にうつし出す。あるいは、身体にぴったりフィットしたピンクのニットにスカート、といういでたちの西尾は、衣服にまつわるジェンダー的要素を浮き彫りにする。タイポロジーの手法が意識されているため、両者を撮影した構図や背景は全く同じであり、微妙にポーズの異なるナイロビの人々とは違い、常に直立不動の姿勢で真正面にカメラを見据える西尾の姿は、証明写真のようだ(さらに撮影条件を同じにするため、どんな服を着ても「無表情」をつらぬく姿勢は、その「真面目さ」とは裏腹におかしみを誘う)。
我々がこの《Self Select in Nairobi》を見てまず思うのは、「服」という身近な存在のコミュニケーション・ツールとしての可能性であり、実際の交換によって浮き彫りになる、社会的・文化的な記号としてのあり方である。(顔の表情も含めて)撮影条件をできるだけ統一しようとする西尾の努力も相まって、見る者は、「服」が表す個人的嗜好や欲望、社会的な地位、ジェンダーや文化の違い、といった様々な差異に直面するのだ。36通りの西尾は、同じ顔、同じポーズながら、36人の異なる人格の現われのようにも見えてしまう。
だが、ここで西尾が提示しているのは、「服」という装置によってアイデンティティを自在に着替えることができる、変幻自在な主体のあり方ではなく、「交換」という双方向のプロジェクトであることに注意しよう。服を西尾と交換した人は、必然的に、西尾が着ていた服を身に付けることになる。それ自体は、ブルーのシャツとズボンという、何の変哲もないものだ。だが、西尾が次々とアイデンティティを着替えていく一方で、相手の人々は皆、同じ服を身に付け、個性を剥奪されて画一化されていく様は、架空の制服であるかのように、不穏さをまとって見えてきはしないか。学校、企業、さらには囚人服のような例に至るまで、制服という装置は、身に付ける者に一定のアイデンティティや規範を強要する。西尾のプロジェクトは、単に文化を超えた交流というポジティブな側面だけでなく、服という身体的、日常的な装置によって、オリジナリティと画一化の間を揺れ動く主体のあり方について、図らずも指し示している。
最後に、この3名の作品にフォーカスした理由についてもう一つ付け加えたい。それは、小泉、伊東、西尾、と辿ってきた道すじの中に、ある種の「共鳴」の構造が見えてくることである。ただしここで言う「共鳴」とは、鑑賞者が作品内に表現された世界に共感し、作者の内面や感情を(視覚的創作物を介して)共有する、という従来的な意味でのそれではない。
むしろ、作品自体が、内部に他者を導入し、他者との回路を開くことによって成り立っているのだ。小泉の《若き侍の肖像》の場合、俳優の演技に執拗に介入する監督のやり取りによって、俳優が噴出させた感情は、最終的に、コントロールする側にも共振作用をもたらすほどの強度を獲得する。伊東は、《死者/生者》という装置を通じて、祖母の語りの身体的な反復によって、祖母を自身の内に内在化させ、「もう一人の祖母」を自身の内に生み出そうとする。西尾の《Self Select in Nairobi》は、感情や身体レベルでの共鳴作用というよりも、服の交換というシンプルな試みを通して、文化的、地理的、歴史的に共有するものがないケニアの人々と文字通りのコミュニケーションを試みている。
ではなぜ、作品内部に他者を導入しようとする試みがなされるのか?ここでは、一つの仮定として、リアリティとは何か、「リアル」と感じられるものがどこにあるのか、という根源的な探究に関わっているのではないかと答えておこう。それは小泉にとっては、反ドラマとして成立するドラマの中でこそ「リアルなもの」として現れる感情の噴出であり、伊東の場合は身体や記憶に関わる問題である。実際の祖母の語りと伊東による反復が重なり合った地平では、どちらが真でどちらが偽かという単純な二元論は成立せず、内在化された祖母という、もう一つのリアリティが立ち現れる。西尾の衣服交換プロジェクトは、異文化の中に身一つで入っていき、服の交換とともに、表層のリアリティを引き剥がしてみせる。実像とも虚像とも判断不可能な、両者の区分を超えたところにあるものとしての「リアル」―その探究、問いの内包こそ、「現代」美術たる証左であると言えるだろう。
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