2009年の見納めとして選んだ「日常/場違い」展は、かなりユニークであった。
これは、神奈川県民ホールの35周年を記念する展覧会で、国内外で活躍する気鋭の作家6名を紹介したものだ。
神奈川県民ホールギャラリーには、以前に一度、塩田千春展を観に行ったことがある。その時の空間の扱い方に度肝を抜かれたものだ。
それ以来訪れていなかったのだが、ここで行われる現代美術の展覧会にはいつも興味をそそられている。
今回もまた、「日常/場違い」というちょっとユニークなタイトルと、選出された雨宮庸介、泉太郎、木村太陽、久保田弘成、佐藤恵子、藤堂良門という6名の顔ぶれから「どうしても行きたい!」と思い、年の瀬に浮き足立った街を掻き分けて会場へ向かったのだった。
賑やかな街並とは違い、館内はしんと静かな空気で落ち着いていた。なんだか次第に、「年末」という急かされる気分も空間に吸収され、時を忘れて作品を楽しんだ。
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木村太陽《Itchy UFO》 |
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木村太陽《I Am The Walrus》 |
まず出迎えたのは、同展チラシが何千枚と積まれた立体を、動物型に切り出した木村太陽の作品である。立体の表面には切り出したチラシの文字が歪んで浮かび上がっている。歪んだ動物、さっそく場違いな存在の登場だ。
木村の作品は、お茶目だ。いくつになっても少年のようないたずら心があるように思う。
《巣穴》という作品は、ダンボール製の迷路。ギャラリーという場に、装飾のない茶色のダンボールの固まりは、無愛想でとてもおかしいのだ。
「なんだ?なんだ?」とぐるり眺めていると、「靴を脱いでお入りください」との文字。人目を気にしつつ、思い切って靴を脱いで四つん這いになり、中に潜り込む。
中には映像を流すポイントが3箇所あり、それぞれレコードという共通点を持つ映像が流れていた。タコを使ったり、鳥足を使ったり、レコードを土の中に埋めてみたり、レコードで首を絞められてみたり……。レコードを使った変化球作品。ふふっと笑いを零さずにはいられない。
女子学生の密集した足がカーテンの下から覗く作品もしかり、木村の作品は「頭隠して尻隠さず」だ。
迷路もまた、モニターが頭隠して尻は隠していない状態で設置され、ダンボールの中に映像が流れているだろうということが、外から分かってしまうのである。中できっと面白いことが起こっているはずだ……というほのかな期待が芽生えてしまう。
木村の「場違い」は、そんな少しヨコシマな予感と期待なのではないだろうか。
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佐藤恵子《変容》 |
今回もっとも大規模に展示空間を使用したインスタレーションを展開した、佐藤恵子の作品《変容》は、とてもファンタジックだった。
地上1階と地下1階を吹きぬける大きなギャラリーで、2つのフロアをつなげた作品は、切り株と吹き抜けた天井が、ピアノ線のような細い糸でつながれ、スポットライトのように光が降り注ぐインスタレーションである。
線の光の交差が織り成すコンポジションは、深い森の中のようだ。使用済みの電池が切り株の周りに立てて並べられている様子は、大地からのエネルギーを思わせる。
他にも割れた瓶の欠片を砂の上に並べた作品や、床に米やパスタと共に割れた食器が並べられた作品など、そこには日常で使われたあとの品々が織り成す幻想的な美の空間があった。日常生活と美は一見かけ離れたもののようにも思うが、日々の暮らしがあればこそ、美しさという非日常が味わえることを佐藤の作品は物語っているようだった。

久保田弘成《Berlin Hitoritabi》 |

久保田弘成《性神式》
久保田弘成の作品は、かなり大胆だ。
廃車を回転させる作品シリーズは国外でも行なわれており、ご存知の方も多いだろう。一瞬目を疑う自動車の無防備な様子に、驚きを隠せない。
そのシリーズともう一点、これまた巨大なインスタレーション《性神式》がすごい。巨木の根っこが生えた電柱が、洗車機に通されている。
フンドシ姿で、演歌と共にひたすら車を回し続ける久保田の勇ましさや、日常の枠から大胆に逸脱することで生まれる「場違い」は、人に勇気や感動をも与えるようだ。
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泉太郎《蚊》 |
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泉太郎《奥歯が増えた》 |

泉太郎《さわれない山びこのながめ》 |
泉太郎の作品は、日常の中の行為を、少しズレた感覚で行った映像作品だ。
笑いながら笑い顔を描いたり泣きながら泣き顔を描いたりする《蚊》をはじめ、その行為の様子は常に意識化された生活の中のちょっとしたズレで、くだらないからこそ笑いが浮かぶ。
小部屋ひとつ使用した《奥歯が増えた》は、自分の姿や別の鑑賞者も作品の中に写りこみ、不思議な感覚にとらわれる。
《さわれない山びこのながめ》は、様々な人の手によって完成された立体作品を街中の人に何に見えるかを問うという作品で、解答が似ているようでいて似ていない、そして答えがあるようでいてないという、あいまいさが見せるズレは、人と人が関わることによって生まれている。
「場違い」という意識は自分ひとりだけでは生まれない。他人や他の要素と合わさることで始めて生まれるのである。泉の作品はそのことを体感できた。

雨宮庸介《わたしたち》 |
雨宮庸介の作品は、狭い扉の先にあった。
溶け出した林檎の彫刻で知られる雨宮だが、今回は映像を使ったインスタレーション作品だった。
扉を開けると、いろいろなロッカーが置かれ、壁面のひとつに映像が流れている。これは、この空間であらかじめパフォーマーを使って撮られた映像で、数々のロッカーの中から出たり入ったりするパフォーマンスに、自分以外の「何か」がそこに息づいているように感じてくるのだ。
「何か」とは、座敷童子というのか、ロッカーの妖精というのか……つまり人間ではない「場違い」な第三者である。奇妙な体験ができる作品だった。
ささやかな輝きが印象的なのは、藤堂良門の作品だ。
石や柱の一部分が切断され、そのあいだに磨き上げられたガラスを埋め込んだ彫刻作品である。
碧色のガラスを通して見るその先の風景は、石の奥秘めた輝きを垣間見るようだ。
石だけでなく本も使われている。ページ部分にガラスが埋め込まれていて、覗き込むと本の背の部分にその本の内容が浮かび上がる。アンネ・フランクの写真に、その本が『アンネの日記』であったことを想像する。
物事の奥底にある輝きや、何かを通して見る日常と違った視点を与えられることで得られる新しい発見があった。
6名の作家による「場違い」の多様さには、本当に驚きだ。
「場違い」といえば、それはTPOに外れた非常識な場合に使用し、それほどいいイメージは持てない。
『大辞泉』によれば、「その場にふさわしくないこと。また、そのさま。」とある。
けれどもその「場違い」が、新しい発見や奇妙な体験を生み、面白さや美しさまで体現できるのである。2009年の結びに、アートの底力を見せられたように思った。
将来に向けての「場違い」な私の妄想もあながち間違いではない!?2010年に希望をつなげる展覧会だった。 |