トリコロールツアーは
メジャーへの一歩
TEXT 藤田千彩
自然光がさんさんとふりそそぐ大阪のギャラリーDENに入ったとたん、「ああ、まだいたのね」と、図鑑にしか載っていないレッドカードの動物を見たときのような気持ちで、私は声に出してしまった。
それは古いとか哀れみではなく、いてくれてうれしい、よかった、という感情から出た声だった。
なぜならアートバブルと呼ばれるここ数年に見た絵画、ペインティングは、ナラムラカミの延長でしかなかった。
ナラムラカミではなく、それ以降の画家が塗りつける絵具の薄さは、彼らの作家としての意志の薄さを感じた。
彼らが描いた人の顔は、見る人をもあざけるようなほほえみを浮かべていた。
とはいえ、ここで見た寺島みどりの絵画、ペインティングは、具体の延長か、と言う人は、ちゃんと絵と向き合ったことがないのではないだろうか。
絵を描く、ということは、キャンバスに筆で絵具を撫でることではない。
むしろ、キャンバスに向かって筆を打ちつける行為である。
特に描く習慣がない私もあなたも、絵画は身体表現である、ということを自覚したことがあるだろうか。
私は寺島みどりの作品を見て思い出した。
呼吸ひとつひとつが、塗りのひとつひとつであり、昨日の気持ちと今日の気持ちは、絵具が重なることで表現される、ということを。
次に東京のneutron tokyoで寺島みどりの作品と会った。
オープニングに行ったので夜だった。
ギャラリーDENが緑色を多くつかったペインティングだったが、こちらはいろいろな色があった。
寺島「みどり」だから緑色、という偏見が既に植え付けられてしまったので、白とか青とか違う色だと違和感がある。
小さいキャンバスにひっかいていることも違和感がある。
こうした違和感は、見る側である私の勝手な偏見、どうしてそんなに偏見があるのかと考えていると、最初のインパクトが強かったからと思う。
インパクトはneutron tokyoという住宅をつかったギャラリースペースでも感じた。
こういう抽象絵画こそ、家というスペースに合うことを知ったのだ。
改めて翌日の昼間、少しやわらかな自然光が入るなか私は改めて作品を見た。
この子となら一緒にいられる、そう思った小さな作品を手に入れた。
そして気がつくと京都にいた。
京都のneutron kyotoで寺島の個展があり、最終日に間に合うように向かったのだ。
友達を数人誘って見に行き、みんな口々に「すごい」と連呼した。
私は自慢げになりながら、彼らと一緒に眺めた。
大きなキャンバスだから引いて眺めていたのに、だんだん作品の一部しか目に入らなくなった。
どこ、ということは具体的には言えないが、ぐーっとひきつける部分がある。
私は大きなキャンバスに入りそうになった。
おっととと、ということで、寺島作品の前でneutron kyotoのおいしいお酒やごはん
をつまむことにした。
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先日「アートフェア東京のレビューを書いてください」という仕事で、私は高校時代に経験した(20年も前の)バンドブームを引き合いに出した。
私にはアートバブルでもてはやされた作家たちが、バンドブームのバンドマンとかぶってしょうがなかった。
バンドブームが弾けて1年、3年、と時間が経つうちに消えていったバンドマンは多い。
でも地道に続けているバンドマンは、いくら有名な人のバックであろうが、まだ音楽の道を歩いている。
アートバブルの作家たちも同じような気がしている。
そんな中、時代に流されない表現をしてきた寺島みどりは、ここに来て大阪・東京・京都の「トリコロールツアー」を敢行した。
バンド的に言えば、ZEPPツアーのようなものであり、武道館への道も見えてきた状態。
寺島も、少しずつ地盤、人脈、ファンをつかんで、どんどん突き進んでほしい。
撮影/表恒匡 OMOTE Nobutada Copy right/neutron, Gallery DEN/2009
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