女性の頭部は髪の毛で覆われており、首から上だけ後ろを向いているのか、それとも顔面に長い前髪を下ろしているのかはわからない。頭部と身体が180度ねじれているのだとしても、頭だけ別の人間のものにすげ替えてしまったような不自然さがある。胸より上を捉えたバストショットのポートレートなので、絵によっては身体の向きも正面/背面のどちらなのか、瞬時には区別がつきにくい。表情を隠蔽された女性たちは生気が感じられず、どことなく非人間的な印象すら湛えている。
自分の見ているものは絵画=虚構なのだという了解事項さえあれば、たとえ描かれた身体と頭部が不自然に接続されていようと、大した躊躇もなしにそのようなものとして受け取ることが出来てしまうものである。しかし永山の絵は、これが虚構であるという了解を持って眺めてたとしても、私たちを深い戸惑いに陥れるイメージの不穏さがある。絵のなかの人物が私たちの眼差しに対して応えてくれないからなのか、反転しているかもしれない身体が画面に対してありえない空間性を生み出しているからなのか、それとも、女性の髪の毛が遮断幕の役割を果たし、画面の奥を探ろうとする私たちの眼差しを廃棄してしまうからなのか…。
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b.《Portrait of
fictitious #2》 oil on canvas 727×606mm , 2008
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c.《Portrait of
fictitious #5》 oil on canvas 652×530mm , 2008
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d.《Portrait of
fictitious #4》 oil on canvas 652×530mm , 2008
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e.switch pointでの展示風景
画像提供/永山真策
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絵画の歴史をひもとけば、後ろ向きの人物を描いた作品というのは実は少なくはないことがわかる。18世紀ドイツ・ロマン派の画家であるフリードリヒの作品では、風景のなかに佇む後ろ向きの人物がしばしば画面の奥へ見る者の視線を誘う役割を果たしている。後姿の女性をモデルにしたものでは、窓辺に立っている妻・ガラを描いたダリの絵画作品や、リヒターがソフトフォーカス調にぼかした筆致で描いた金髪の女性像などが有名だ。また、描かれた人物の顔の位置や視線の向きは、画面内に動きを与えるための常套手段として意図的に構築されることが多い。
永山の描くポートレートにおいては、見る者の視線を画面の奥に導くベクトルと手前にはね返すベクトルとが、どちらに主導権を渡すでもなく曖昧なまま宙吊りにされている。人と真向かいに対峙するときの緊張感と、視線を逸らされたときに感じる心もとなさが、ここでは同時に存在している。アクションのない女性像は、見る者に風景の彼方を夢見させることもしないし、深い内面への観想に誘うわけでもない。私たちはひたすら、美しく整った髪の毛のシルエットを見つめ、徹底的に表層的な美の領域に留まることになるのである。
ここでふと、絵画におけるイメージとは本来そのようなものではないかと考えてみる。つまり、私たちが見ている現実の背後にあり、隠蔽されたものでありながら、私たちを絵画=遮断幕へと絶えず惹き付ける誘発力こそがイメージだということ。絵のなかの女性は、確かに眼差しや表情によっては何も語りはしないだろう。しかしながら、髪に添えられた花が、ほつれかけた三つ編みの毛先が、ひとつひとつ丁寧に描き込まれた首飾りの宝石が、目鼻立ちの代わりに言葉ならぬ言葉としてこちら側にサインを送ってくるかのようではないか。
開きかけた花弁は、唇よりも官能的にメッセージを伝達し、見る者の無意識に静かに浸透する。もしかしたらこれは、現代のシュルレアリスム絵画なのかもしれない。(写真=b)
そういえば顔面が隠蔽されているところなどは、マグリットの《恋人たち》(1928年)という絵画作品などを連想させる。《恋人たち》は、寄り添う男女のカップルが頭部に真っ白いシーツのような布をかぶっているところを描いたもので、目鼻の代わりによじれたシーツの皺が抑制された官能性を呼び起こす作品である。ただ、マグリットと永山の絵画では決定的に違う点がある。マグリットがどこかペラペラとしたお家芸的な描写(イラストレーション)であるのに対し、永山の絵画は完成度の高い描写の質を一点一点において保持しているのである。
例えばswitch pointの部屋の奥に、ボブカットの女性を描いた2点の絵画が対になって展示されていたのだが、これは同一人物の正面と背面であると思われる。(写真=c,d)
同一人物といっても記号的な共通点からそのように判断するしかないのだが、一見したところ2点の作品の違いは身体の向きと洋服の柄くらいしか見当たらない。それでいて、2点の絵画を大きく区別するもの、それはモノクロの微細な色調差である。2点が対に並べられることによって、モノクロの色調の差があらわになり、私たちの感受性も細分化される。(このような形容は矛盾だが)灰色のなかにも明るい闇と暗い光があること、髪の艶が巧みに描き分けられていることなど、永山の絵画の造形的なの豊かさがよくわかるようになるのだ。そして、描かれた女性は階調の対比の中にしか存在しないこと、儚いイメージの影にすぎないことを、私たちは発見する。(写真=e)
一方で、永山の作品は写真的なイメージも孕んでいる。画面がモノクロ写真のポートレートを連想させること、ソフトフォーカス調に輪郭が少しぼやけていることなどがその理由だ。写真は生きとし生けるものの世界を切り取って無時間のなかに定着させるが、永山の描く女性たちは、煩雑な色彩の溢れる現実世界から背を向けた、冷酷な美のネガであるかのように思われるのだった。