西荻窪発、宇宙着―Homingとtraveler、2つの展示を見て
TEXT 中島水緒
杉並・西荻窪の閑静な住宅街の真ん中に、ちょっとユニークな一軒家型のアートスペースがある。元診療所の建物を利用して誕生した「遊工房アートスペース」だ。
緑のツタが這う外観もさることながら、年季の入った板張りの床や、2階の窓から見晴らせるちょっと密林めいた小さな庭など、到る所に記憶の堆積を感じさせる見所いっぱいの空間である。1階にギャラリー、2階には主に滞在制作の作家が発表するスタジオBがあり、さらには海外の作家のためのアーティスト・レジデンスのスペースを併設。これまで100人近いアーティストがそこで制作を行ってきたという。
今回、この遊工房で見たのは小林史子と栗山斉の二作家の展示。両名とも、これからの活躍が期待される若手作家だ。まず、5月1日から2階のスタジオBで展示を行った小林史子の作品からレポートしてみたい。
階段を昇る途中から、何やら柑橘系の爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。ひょっとして食べ物でも置いてあるのだろうか? 香料の類とは違う、本物の果実の匂いである。
そして、室内を見回して意表を突かれる。部屋の一角に、古めかしい家具やら日用品やらが微妙な均衡を保って積み上げられているのだ。(写真a)
スピーカーの上に唐突に置かれたヤカン、物陰に佇む古めかしいアップライトピアノ、壁に斜めに寄り掛かった大きな箱、ひょろりと伸びた2本のバナナの木――。蛸足のように突起を延ばしているのは帽子掛けだろうか。いずれも、遊工房に元々あったものを集めて使用しているそうだ。引っ越したばかりで内装が出来上がっていない部屋に、とりあえず荷物を運び入れて片隅にまとめ置きした――、そんな状況を連想しなくもないが、すべての配置が危ういバランスで成り立っているので、生活空間の延長がそこにあるというよりも、事物が一時的なアクロバットを演じている舞台のように見える。
それによく観察すると、事物の配置がとにかく構築的なのだ。絵画的と言い換えてもいいかもしれない。個性的な日用品が並んでいるにも関わらず、事物のもつ形態や色彩が抽象的に目に飛び込んでくるし、視覚的な対比も効果を上げている。また、いちばん目に付く戸口の桟のようなものが、視界をフレーム付ける役割を負っているところも絵画を思い出させる。(写真b)
フレームの奥に、丸椅子が置いてあるのが見える。丸椅子は垂直に2、3脚積み上げられているようだが、別の物に遮られてよく確認できない。そのせいで、脚だけが異様に伸び上がっているふうにも見える。さらに、事物と事物の隙間からまた別の事物が覗き、奥行きを複雑にする。どこかに鏡でも挟まっているのではないか、2本あるバナナの木のうち1本は鏡像なのではないか…そんな錯覚も引き起こす。色んな角度から受け取った視覚情報が、なかなか一つに統合されない。そしてこの情報空間の多層性こそ、小林のインスタレーションの魅力であるように思える。
一方で、バス・トイレの部屋に通じる戸口の部分を事物で埋め尽くしたインスタレーションが展開されている。柑橘系の匂いの正体はどうやらここにあるパイナップルだったようだ。(写真c)
年季を感じさせる事物が多い中、新鮮な果実を使うとは異色なチョイスだが、けっして全体から浮いているわけではなく、むしろ良い具合に視覚的なアクセントとなっている。事物が正面性のシルエットに変換されて見えるあたり、これもまた絵画的なインスタレーションと言えるだろう。
小林のインスタレーションは、その空間に固有の性格を換骨奪胎し、新たな事物の見え方を提示している。繰り返される構築と撤収――。仮宿で逞しく生き抜く術は、作家本人の身体と脳にインプットされているのかもしれない。作品タイトルが「Homing」とある通り、ふだん特別に意識されない住居空間も、現在進行形のアクションによって変遷を見せる。彼女が次に行き着くのはどんな「場」だろうか。様々な空間とのコラボレーションが期待される。
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《traveler-旅光》 2008 タイプCプリント
素材: ヒューズ、FMラジオ、etc. 写真提供:栗山斉 |
小林から数日遅れの5月7日から1階のギャラリーで展示を行ったのが1979年生まれの栗山斉である。今年のART@AGNESや101TOKYOに出品するほか、トーキョーワンダーサイト本郷の「Oコレクションによる空想美術館」(開催中。6月1日まで)で内田耕造、COBRAと共に展示を行い、注目を集めている。
作品は蛍光灯やネオン管、ヒューズを使ったインスタレーションをメインに、写真、映像、アートプロジェクトなど多岐に渡る。例えば、人為的にヒューズをショートさせ、その様子を印画紙に定着させる作品では、弾ける一瞬の光に「生成と消滅」というコンセプトを重ね見ているようだ。宇宙的な世界観にも通ずるコンセプトがロマンを感じさせなくもないけれど、栗山の選ぶアウトプットの手法は常に理知的。さしずめ理系の作家といったところだろうか。
昨年、magical, ARTROOMの4階で、割れかかった大量の蛍光灯を暗い室内で明滅させた展示が印象的だったが、今回の遊工房での個展はどのようなものになるか。良い意味で期待が裏切られることを期待して訪れてみたところ、自然光の注ぐ室内に設置されていたのは、4点の写真作品と1台のラジオだった。
写真は印画紙に直接ヒューズの光を焼き付けた例のシリーズで、去年のギャルリー東京ユマニテでの個展で展示されていた作品よりもずっと大判。赤、オレンジ、黄色の色彩が真っ白な地の上に鮮やかに広がり、抽象的な滲みをつくっている。一見、花弁を拡大して撮影したソフトフォーカスの写真にも見えるし、絵具か何かを水に溶かしたところを捉えた写真にも見える。実際の正体は、ヒューズが一瞬だけ散らす火花のような光。物理的なかたちを持たないものの残影に過ぎないのだ。物質的な質感を喪失した色彩は、見れば見るほどすべてを吸い込むブラックホールのように感じられる。
写真はマットに入れられ、額装されている。マットの部分には撮影に使われて空っぽになったヒューズ管が組み込まれ、ヒューズをショートさせた瞬間とおぼしき日時がサインされている。それから、「departure」の文字。光はもうここにはないけれど、物理的現象は確かにそこで生起して、空間を伝導した。窓際に置かれているラジオはノイズだけを流し続け、何かの信号をキャッチしている。
「ここではない彼方」を夢見るのは、シニカルな価値観が蔓延する現在にあってあまりに素朴すぎる態度かもしれない。しかし栗山の作品は、私たちがふだん感知できないままでいる物理的な美と夢を、白々しいリリシズムに陥ることなく見る者に指し示すことに成功している。この地上には、まだまだ探求し尽くされていない未踏の領域があるはずだ。それは、何の変哲もない一個のヒューズ管から始まることだってある。流れ続けるノイズ音に世界の揺るぎない持続を感じながら、会場を後にした。