作品に命を吹き込む両義的イメージ
TEXT 田中由紀子
ヒラヒラの大きな襟を持つトカゲの少女に、長い髪と体が一体化した女性。おとぎ話の世界から飛び出してきたような白水ロコの彫刻は、見るからに女性らしい美しさに満ちている。しかし「美しい」という言葉では、彼女の作品の本質を言い表すのに不十分である。それは白水の作品が、見る者や見る時によってさまざまな感じ方を許容するからにほかならない。
白水の作る彫刻の愛らしく美しいさまは、見ているだけで私たちを幸せな気持ちにさせてくれる。しかしその美しさの裏側には、わずかな凶暴さや恐ろしさが見え隠れしている。たとえば、トカゲの体に少女の顔を持つ《蜥蜴の散歩》はユーモラスでかわいらしい反面、こちらが油断した瞬間に、その鋭い爪を立ててきそうである。また優美にうねる髪が木の幹を思わせる《miramare》は、その髪のうねるさまから、ヘビの髪を持ち彼女の目を見た者を石に変えてしまうというギリシア神話の怪物メデュースを連想させる。こうした両義的な要素を生みだすのに、白水はトカゲと少女という一見対極にあるモチーフをひとつにしたり、古来からさまざまなイメージと結びつけられてきた女性の髪を象徴的に作品に用いている。
また、白水の作品が持つ両義性は、彼女の制作の仕方とも深く関係している。というのは、木や石を削っていく彫刻の場合、最終的な完成像を明確にしたうえで制作するといった印象が強いが、彼女の場合は、細部までははっきり決めないまま作り始めるからだ。いま彫った箇所から、次はどう彫るかを考えながら彫り進めていくというまさに、絵を描くように彫刻していくというのだ。この場合、あらかじめ用意された完成像を目指して制作するのと比べて、彫っている時点での白水の気持ちが反映されやすく、作品はその時その時の彼女自身の集積となる。そのために、白水自身の人間としての多面的な要素が作品に表れるのではないだろうか。
白水が作る彫刻は、こうした両義性をとおして生身の人間らしさを私たちに感じさせる。美しさと同居するわずかな凶暴さや恐ろしさにより、作品は命を吹き込まれ、それと向かい合う私たちとの間にそれぞれの物語を紡ぎだすにちがいない。
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