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「Floating Light 〜光、降る夜〜」 (2003) |
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著者プロフィールや、近況など。
横永匡史(よこながただし)
1972年栃木県生まれ。
2002年の「とかち国際現代アート展『デメーテル』」を見て現代美術に興味を持つ。
現在は、故郷で働きながら、合間を見て美術館やギャラリーに通う日々。 |
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いつかどこかで見た「記憶」の中へ
TEXT 横永匡史
真夏の強い日差しが照りつけ、うだるような暑さの中、ヨコハマポートサイドギャラリーに足を踏み入れる。
すると、外とは打って変わって、薄暗くひんやりとした空間があった。
今思えば、それこそが松尾高弘の作り出す異世界の入口だったのかもしれない。
今回出展されている3点は、いずれも鑑賞者の動作によって光を発生させるインスタレーションである。
まず、天井に無数のコードが張り巡らされた、藤棚のような空間の下に案内される。
これが最初の作品「Noctiluca」だ。
鑑賞者が手を上にかざすと、それにセンサーが反応して、頭上が青白く光る。
淡く青白い光は、壁にも反射して、まるで深海のような空間をつくりだし、その中を手をかざしながら歩き回ると、海の中をさまよい歩いているかのようだ。
外の日差しや熱から遮断され、母なる海の中で護られているような安らぎを感じる。
続いては、「Floating Light〜光、降る夜〜」。
案内されたのは大きなスクリーンの前。そこで、指輪を渡される。
これを、プロジェクタの方向にあるセンサーに向けると、指輪から色とりどりの光が生まれるという。
指輪から生まれた光は、スクリーンを乱舞し、手で捕まえようとすると、弾けて消える。
指輪から光を生み出すという行為は、自分が魔法使いにでもなったかのように感じさせ、僕の心は子どものようにワクワクする。
そして、スクリーン上を浮遊する光を捕まえようと追い求める様は、まるで蛍を追いかけているように感じる。
しかし、光を捕まえると、花火のように一瞬のきらめきを見せて消えていく。
気がつくと、まるで子どもの頃に戻ったかのように夢中で光を追い続ける僕がいた。
最後は、新作である「Phantasm」。
光る球体を手渡され、スクリーンで囲まれた空間の中へ。
光る球体をかざすと、ピアノの曲とともに暗闇の中から白い蝶の群れが吸い寄せられるように集まってくる。
淡くほのかな光を放ち、鱗粉をきらめかせながら暗闇を舞う蝶の姿はただただ美しい。
いつしか僕は蝶の群れに包まれ、戯れ、身を委ねていく。
しかし、光をさえぎると、ピアノの曲は止み、静寂の中で蝶ははかなく消えてしまう。
そのとき僕は、それがひとときの「Phantasm=幻影」であったことに気づかされる。
この3作品に共通する、暗闇の中のほのかな光。
それは、過去の記憶の断片、いつかどこかで見た「記憶の中の世界」を呼び覚ます。
その中で、手をかざして動き回り、光と戯れる。
知らず知らずのうちに子どもの頃のように動き回り、「記憶の中の世界」の中に入り込んでいく。
ノスタルジアの中で遊ぶ快感に身を委ねていく。
でも、僕たちは知っている。
いつかは現実に戻らなければならないときがくる、ということを。
そしてそのとき、「記憶の中の世界」は消えていってしまう。
まるでそれが幻であったかのように。
しかし、「記憶の中の世界」が消えてしまっても、僕らの心の中で記憶は思い出になるのだ。
ギャラリーから外に出ると、やはり真夏の日差しが待ち構えていた。
そして、僕は現実の世界へと帰っていく。
ひとときの思い出のきらめきを心に抱いて。
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