アートでもネイチャーでも出会える風景
四国の風景が好きだ。「まんが日本昔ばなし」に出てくるような、ぽっこりした山、麦畑、そよそよと流れる用水・・・橋を渡ると、心が安らぐ風景に出会える。
そんな「自然(nature)」の「風景」とは、また違った「art」な「風景」に、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館で行われている「風景遊歩」展で出会えることができた。
この展覧会では、作品を[あたらしい風景]と[みえない風景]の二つに分け、大きな会場をぐるっと取り囲むように作品が配置されている。
全体的な作品の印象は、東京などで現代美術を見ていると少し膨満感ではあるが、それでもいまの現代美術をうまくとらえ、キーワードである「風景」をモチーフにうまく流れを作っているように感じる。
[あたらしい風景]として並べられている中で、私は具体的に描かれている(表現されている)作品ではない、つまり畠山直哉《Underground#6205》、《Underground#6912》、《Underground#6411》、野村仁《赤道上の太陽》、秋岡美帆《光の間》の作品群の地点が感動だった。
「あたらしい」というのは、人によっても理解が異なるだろうが、「私は見たことがない」というとらえかたをした場合、光を求めて映し出す畠山、太陽の軌跡を毎日×一年分写真にし、無限大のマークのようなオブジェに仕立てた野村、いまはないというNECOプリントを使った和紙での写真表現。素材、映し出されたもの、新鮮さ、それらが並べられた地点はまるで異国の地のような感覚だった。
[みえない風景]として並べられている中では、小林孝亘《GATE》、大岩オスカール幸男《エイジアン・ドラゴン》、会田誠《人(hi-to
human being)PROJECT》の作品群の地点に立ちつくした。
「みえない」というものは、別に目に入らないという単純な意味だけでなく、目を覆って見えない、あえて見ない、背が足りなくて見えないなど理由が付加される。
そういった考えのもとで、小林の独特の筆致で描かれた閉ざされた門には、きっと向こうに人はいるのだろうが見当たらないという意味で「見えない」、大岩のアジアかどこかの場所でごちゃごちゃと描かれている中に「非現実(=見えない)」竜も描かれている、ジャングルにアスファルトを敷き“人”という文字を書くというプロジェクトは、「実際はありえない(=見えない)」。
風景というものは、あながち流してしまいやすいが、こうして意識することは大切なのだ。
つまり、美術(現代美術に限らず)というもの、あるいはその他日々の生活とはあまり関係のないと思っているもの(小さなネジの世界とか、ティッシュ配りをしているお姉さんとか)も、意識をすることによって、「物の見方・とらえ方」が違ってくるということを、この展覧会で強く気づかされた。
TEXT 藤田千彩
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