彷徨うオバケたち
「オバケは死んだらオバケになるのだろうか」という問いかけでこの展覧会は始まる。
名古屋市民ギャラリー矢田の第1〜7室で開催されたグループショー「GOHST OF GOHST」。名古屋を拠点に活動する30歳以下のアーティストの17人による、正直、若さのはじけない展覧会だった。壁や床の占有率の低さからか、どこの展示室もぽっかりとした不在感だけが空間を支配していた。まるでその不在感を創出するために作品が置かれているようであった。
しかし、個々の作品を見ていくと、それら自体が「不在感」というものを孕んでいることに気づく。
尾田明子の自立した電動歯ブラシが振動し続けている「Untitled」や需要と供給が曖昧な、予め両目に黒目が入った祈願のためのアイコン「ダルマヘルメット」(誰が祈り、誰のために願いを叶えるのか?)。木村充伯による木彫の犬「あ、犬がいる」や体を離れてさまようペニス、大野陽子の「とある風景」。新聞、雑誌などに掲載された間取りにペイントを施した中野愛子の「MADORI」。そして作家自身の体重分の空気をビニールで梱包し、透明な分身を出現させることでで自分自身を消して見せた竹田尚史(本展企画者)の「空気になる私」。いずれも(歯ブラシ、ペニス/所有者)や(犬/飼い主)、(間取り/住人)や自分自身といった主体が、そこからほんの僅かな気配を残して姿を消している。
動機や原因を伴わない「虚無感」や「喪失感」は人を不安な気持ちにさせます。理解の及ばないもの(なぜ?)に対する恐怖。それは「オバケ」も例外ではなく、むしろその代名詞と言っても過言ではないだろう。
アートやアーティストも、その存在や定義には唯一無二で明確なものはない。彼等は自らオバケの世界で漂っていると言えよう。竹田も「私がフィクションなのかもしれない。」という自身が曖昧な存在であるという言葉をこの展覧会へ寄せている。
フロイトの「最も恐ろしいものは自分自身」という言葉を思い浮かべるとき、恐怖(アーティストという未知なるものとしての自分)と対峙している彼等の精神状態というものが心配になる。竹田はこうも言っている。「事実であることと虚像であることが、ごっちゃになってしまったものが創る展覧会です。」と。大袈裟ではあるが、これはあきらかに精神疾患ではないか!しかし、予め自分が「オバケ」であること知っている彼等は、唯一アートを媒介に社会との均衡を保っているのである。
彼等の「オバケは死んだらオバケになるのだろうか」という問いのニュアンスはどことなくアメリア・アレナスの「なぜ、これがアートなの?」に似ているような気がする。それぞれの答えはそこにいる「オバケ」に直接聞いてみたいと思う。
TEXT 野田利也
|