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米松の大径木
TEXT & ILLUSTRATION 岡村裕次
「私性」から産まれる建築
「社会性」という殻からの脱皮

美術において「作品の独立性」を高める為に彫刻を台座の上に乗せたり、絵画に額縁をつけてきました。壁や天井などに書かれていた絵は16世紀頃からキャンパスに書かれ始め、額縁を伴ってお金で取引される商品となっていきます。良い絵など様々な美術は美術館に閉じ込められ、美術が身近な存在ではなくなっていくのです。それに反対した作家が美術を美術作品たらしめる存在の象徴である台座や額縁、更には美術館などの既存の制度を捨てて何ができるのかを模索した運動が過去にありました。これは美術が経済商品となり、手の届かない存在となることで日常から離れてしまう事を嫌ったのでしょう。

建築ではまさに現在似たようなことが起こっているのではないかと考えています。以前は建築も立派な基壇の上に乗せて建築の威厳や作品性を高めていたのですが、前回取り上げたSANNAの例のように建築は地面に着地して基壇を捨て、正面性を否定しどこからでも入れるようにしました。美術館、美術建築という存在がもっと軽く、そして誰でも気軽に感じるような日常的に身近な存在になろうと意図しているのです。

それでも尚、建築が捨てられないのが「公共性・社会性」です。建築はそこに立ち続け、誰の目にも触れてしまう存在であり、かつ人のお金を使って建てるという特性がある故、建築家は客観的な視点を保ちながら建築を作る事が要求されてきました。建主個人の特殊な要望に対する解答は極力一般的な出来事として解決する努力をし、その建築が社会に対してどういった意味があるのかまで問題を昇華させていくように指導されてきたのです。「社会性」があるべきだと教わる事で建築学科の学生は身構えてしまい、哲学や倫理学等を参照しながらどこかで借りて来た難しい言葉を並べてしまう傾向がありました。「建築家は社会の事を常に考える、高尚な存在であるべきだ」という考え方は美術が額を付けて「作品化」を促進したように建築家と一般社会と乖離させて来た原因の一つなのかもしれません。

一方、美術においては「社会性」の反語である「私性(わたくしせい)」は作品を制作する上でとても重要なテーマであり、作家の制作意欲に直結する大切なものです。言葉がうまく操れなくても手を動かしながら作家個人の想いを絵や彫刻、音楽、ダンス等に託して制作されて来た素敵な作品は沢山あることでしょう。建築のように言葉というメディアに落として自分の想いを客観視しようとするのではなく、なるべく想いをそのまま言葉以外の表現メディアにぶつけて表現したほうがより感情が作品に乗り移る可能性はあります。それは作品を見る観客にとってえも言われず感覚的に、またどうしようもなく魅かれてしまう事象を引き起こし、個人的な事が共有できた喜びから美術が身近なものと感じさせてくれるかも知れません。

美術と違い建築において主題になり得なかった「私性」が最近の学生の卒業制作においては大きなテーマとなるという動きが出てきました。日本建築界をリードする建築家達が「私性」から作り上げた卒業制作を「全国卒業設計の第二位」に評価するという結論を出してきているのです。いままでの建築家の考えを根本から揺るがす状況が学生の作品から産まれて来たのです。

その舞台は2002年より建築学科のある大学の卒業設計日本一を決めようと仙台で行われているイベントでした。「私性」から建築を作り上げようと試みた作品として評価されたのは大西麻貴(2006年日本三位)や斧澤未知子(2007年日本二位)の作品でした。これらの作品は審査時に大きな議論を呼び、かつ現役学生に多大な影響力を及ぼすものでした。

その時の審査員であった五十嵐太郎(建築史家)氏は「批評性がある」という観点から強く推薦し、他の建築家(例えばみかんぐみ曽我部氏)が反対するという図式であったようです。彼女達の卒業設計は完成度が高く、魅力がある事は間違いないと全員の審査員は認めるのですが、「私性から建築作り上げ、社会性に欠ける卒業設計を全国一位にしてしまうと今後の学生の指標となってしまう。それは建築家としてできない。」という理由で建築家の審査員は躊躇し、最終的には一位にはなれなかったという審査経緯のようでした。

しかし、審査で議論を呼んだことが日本一位よりも逆に目立ってしまう結果となり、沢山の追従者が出て来ているようです。ここでは建築が守ってきた「社会性」という「たが」を女子学生がはずし、次なる建築のステージを暗示しているようにも思えました。もしかするとこれが冒頭にあげた美術における「脱美術館」といった運動と同じで、建築を日常の視点や言葉から語り、もっと身近な存在となるきっかけになるやも知れません。

では「私性」を全面に出しながら現在建築を作っている建築家がいるかというとお金がかかる現実の世界ではそうでもありません。しかし、若手建築家の中に「建築を作る手法としてのルールを自分の「私性」のよって考える」という人たちは増えてきていると思うのです。「なぜそのルールが突然出て来るのか?それは正しいのか?」は不明確で、大きな議論対象とされず、そのルールの中で新しい形式が産まれるまでひたすらスタディーを繰り返していくのです。言葉で全てを説明しようとしないで、スケッチなどのドローイングを書いたり、沢山の模型を作りながらひたすら形をスタディーしたりしているのです。そこでは言葉を使わないでスケッチや模型等で情感に訴えながら建て主とコミュニケーションをはかろうとしてるかのようなのです。

そうしてでき上がった建築は1回目で取り上げた建築のように少しカーブしていたり、斜めになっていて「なんだか変だけどちょっと可愛い」を建主と建築家が共有して出来上がっているのです。ルールの中で形を沢山作って行くと皆が「これが一番良いのだ」と言葉ではなく、感覚的に一致するような、まるでグルーブ感のように共感した「私性」の部分が「社会性」を超えて出てきているのです。「説明できない私性で決めた部分少しある方が魅力的だ」そんな時代に今さしかっている最中なのかと僕はぼんやりと思っています。


著者のプロフィールや、近況など。

岡村裕次(おかむらゆうじ)

1973年三重県生まれ
建築家(建築設計事務所TKO-M.architectsを主宰)
ウエブサイト  TKO-M.architects
建築がもつ不自由さが気に入っていながら美術の自由さに憧れるそんな矛盾した建築家です。

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