葛飾北斎と藤田嗣治について記したいと思う。なんでこの両者なのか。あまり根拠のある理由はないが、一つには、両者とも世界で知られた数少ない日本人アーティストであり、現在でも燦然と輝いて見えるからである。村上隆は、自分の図書「芸術起業論」(幻冬舎)の冒頭で、「なぜ、これまで、日本人アーティストは、片手で数えるほどしか世界で通用しなかったのでしょうか」、と。片手で数えるほどって誰か?村上の言うには、葛飾北斎、藤田嗣治がそれであり、この指摘に意を強くする。これが両者を取り上げたもう一つの理由である。ちなみに村上は、3番目は自分だと言っているようである。
まず、葛飾北斎である。彼は1760年、現在の東京都墨田区生れ、没年が1849年、画業に従事したのは実質ほぼ70年の長期にわたっている。特徴は、常に新しい分野に踏み込みその画業はけた外れに広い、しかも革新的思想の持ち主だったそうである。力があったればこそ、であろう。生涯に雅号を数知れないほど変え、転居も93回に及んだとのこと。これらと常に新しい分野に踏み込む考え方とは共通するところがあったのかもしれない。
北斎は最初、浮世絵師勝川春章(1726〜92)のもとに弟子入りする。その翌年勝川春朗を名乗り、浮世絵師として広い分野にわたって活躍する。35歳で勝川派から離脱し(破門か)江戸琳派の一門俵屋宗理を襲名する。この時期には、摺物や狂歌絵本、さらに肉筆画を描く。50歳代に入ると絵本、絵手本に力を注ぐようになる。錦絵も描いている。このころ増えてきた弟子たちの教育のために「北斎漫画」を描く。70歳代に入るとすぐれた風景画や花鳥画の連作版画を描く。《富嶽三十六景 神奈川沖波裏》(1831頃)はこの時代のものである。
北斎は、師春章から伝授された最新の浮世絵画法と、もともとあった漢画の素養と融合したものが北斎の出発点にあったとのこと。さらに北斎の人並み外れた西洋画への関心は、勝川派にいた当時から作品上に現れていたそうである。当初は西洋画の影響を受けた透視遠近法によっていたが、のちに進化し手前のものは大きく遠くのものは極端に小さく表現する浮世絵独特の遠近法を用いた。また、北斎は、円、直線など幾何学的図形を使って絵の構図を決める画家でもあったそうである。前記《富嶽三十六景 神奈川沖波裏》は、この手法を用いた典型例かもしれない。
北斎の作品が西欧で取り入れられたのは、奇抜な発想、構図の面白さなどであり、これらがパリにおけるジャポニスムの盛り上がりを促したといえるであろう。
次に藤田を見てみよう。藤田嗣治(1886〜1968)は、1920年代パリで活躍したエコル・ド・パリ(パリ派)の画家である。1913年若い藤田は画家を目指して芸術の都パリへ。次第に分かってくると、油絵ではどうしても向こうの画家にはかなわない。いかに独創性を発揮すべきかを熟慮。浮世絵の女性の肌の美しさを油絵で表現する技法を思い付く。すぐに実行しようとしたが浮世絵の細い細い線描が油絵具やあのキャンバスではできない。着想はよかったが、実行できず、再度努力を重ね、ついに線描法採用可能ないわゆる“魔法のキャンバス”制作に見事成功する。
1921年(「腕一本」藤田著では1920年)のサロン・ドートンヌ(秋の美術展)で、藤田は裸婦像を発表、その作品を見た人々は口々に「素晴らしい深い白地だ」と言って絶賛した。一躍流行児になり、翌年のサロン・ドートンヌでは審査員にまで上り詰める。藤田の巧妙な戦略と不屈の努力が功を奏した。最初から世界に挑戦し、成功を勝ち取るなど闘志と先見性以外の何者でもなかった。反面あまりにも目先が利く、要領がよすぎる(節操がない)と誤解されることもあったかも知れない。さらに国際舞台での大成功には嫉妬心も働いたであろう。そして日本では終始作品が正当に評価されることはなかった。
戦後美術界では戦争責任論争が巻き起こった。藤田は美術界から画家としてただひとり戦争責任“有り”との烙印を押され、日本にいにくくなり、フランスへ。1954年フランスに帰化、そして日本に帰ることはなかった。若い藤田は、パリで誰よりも日本人として生涯を賭けたつもりだった。日本人としてのアイデンティティーを獲得しようと励んだ。しかしその意が肝心の日本に伝わらず、異国の地で果てた。痛恨の極みだったであろう。現在では正当な評価がなされている。聡明な藤田のこと、ここまで読んでいたかもしれない。
かつて浮世絵が西欧で評価されたのは、向こうにない奇抜な発想、面白さがあったからであろう。北斎は浮世絵そのもので、藤田は浮世絵の特徴を活用して、評価された。日本美術史家である辻惟雄は図書「奇想の系譜」、「奇想の図譜」のあとがきで、「奇想」とは、日本の美術作品による「意表を突かれた時の驚きである。眠っている感性と想像力が一瞬目覚めさせられ、日常性から解き放たれたときの喜びである」としている。そして「意外に面白い奇想の世界を日本美術が持ち合わせていることが分かってきた」と。さらに「ひとつには日本美術が古来持っている機知性(ウィット)や諧謔性(ユーモア)―表現にみられる遊びの精神の伝統―と深くつながっているように思われる…・」とし、「奇想」を、もう一つの「飾りの機能」と併せて、「時代を超えた日本人の造形表現の大きな特徴としてとらえたい・・・・」としている。これこそ注目すべき点で日本美術の一つの有力な特徴ここにありである。
現在ロンドンの大英博物館で、春画展(2013.10.3〜2014.1.5)が開催されている。珍しい企画である。日本での巡回には開催地が決まらないようである。この春画展は作品数およそ170点、「日英国交400年記念イベント」の一環として開催されているようだ。宗教色の強かったヨーロッパではこの種の作品はなかったそうである。日本には春画を含めて浮世絵があるし、そのほか古来から「奇想」の系統に属する作品があり、これこそ日本の伝統の一つであろう。「遊び心」や「ユーモア」の伝統こそ人を引き付ける普遍的な特徴だといっていいであろう。素晴らしいことである。
目を世界の現代アート作品に転ずると、すべてではないが「面白くなさ」が目立つ。現代美術展には専門家と一部の愛好家しか入らないのはこのためであろう。大衆は遅れてついてくるという考えはあるが、これも日本では無理であろう。例えば、今年六本木のワコウ・ワークス・オブ・アート(2012.12.8〜2013. 1.26)で見たゲルハルト・リヒターの作品『New Strip Paintings and 8 Glass Panels』などは説明を聞かないとほとんどの人は分からないだろう。聞いても分かりにくい。理屈の塊のような作品である。ここまで考えてきたプロセスは素晴らしいの一言。作品そのものより思考回路が評価されているように思えてならない。誰も気が付かないことをやっているからだろうか。もう一例挙げれば、ダミアン・ハーストも同様に思う。これも前号のPEELERに記したので詳細には触れないが、リヒターと同様に考えられるのではないか。これらは西欧での評価なのでこれはこれでいい。世界基準は現在でも西欧の評価であり、これが大事なことは分かるが、日本人として、西欧との評価基準の違いを痛感せざるを得ない。あちらはキリスト教文化と哲学思想に取り囲まれた社会である。思考の傾向が理性的、理論的、主知主義的になるのは当然のことであろう。日本は日本として、先に触れた特徴を大いに発揮して「理性」、「理論」というより、「感性」、「ゆとり」、「遊び心」、「ユーモア」などを取り込んだ世界を提示していくことが方法の一つとして大事ではないか。これこそアートの原点に近いように感ずる。こうすればかつてのジャポニスムではないが、西欧の刺激にもなるし、日本の良さを一層具体的に示すことにもなるのではないか。具体例はあちこちに見られる。更なる健闘を期し世界を揺るがす大きな流れの一つにしたいものである。