荻野僚介(1970〜)の絵画も注意を惹いた。作品を見てすぐに前回の所沢ビエンナーレ第一会場の講堂の壇上に大きな絵画が展示されていたのを思い出した。この絵画は1点でも目立ったが、今回はあまり大きくない作品が何点も展示されていた。荻野は以前埼玉近美の「ニュー・ヴィジョン・さいたま」展でも取り上げられていたが、以来関心を持って見ている。なぜか惹かれるからである。必ずしも抽象絵画一辺倒ではない。全てが筆跡を感じさせない色面の見事な配列からなる平面的な作品である。惹かれる理由の一つは、色彩が素晴らしいことである。補色の効果とか、各種の絵具を駆使して描いているのであろう。見事である。もう1点は構図の面白いことである。色面の特殊な配置による面白さがあり、具象絵画にしても同様に色面の配置が面白い。言葉では表現しにくいので写真を見ていただくしかないが、作品によってはユーモアを感じさせるものもある。これらが総合されて魅力を発揮しているのであろう。作品を見ていると心が洗われるように感じたり、発想の面白さに感心させられたりする。記憶に残る作品である。
以上3人の作品を見てきたが、この中で特に前野智彦と冨井大裕の作品をもう一度考えてみたい。というのはこのような作品が面白く思えて仕方がないからである。以下は私の勝手な推測だが、両者に共通しているのは真剣に作品を制作しているが、内容が全く「無意味」だからである。「無意味」ってあまりよくないことに使われる言葉だが、ここでは少し違う。意識して「無意味」な作品を制作しているところが大事だ。このような作品って端的に言って面白い。逆にコンセプトが分かりにくく辟易させる作品ってある。こんな作品って肩がこる。作品って普通の人が見て感心する、感動する、面白いと思うことって大事なことであろう。もちろん「無意味」のもたらす効果が作品のすべてではない。「無意味」を取り込むのも一つの有力な方法であろう。普通の人が見てそれなりに理解できるとか、あるいは後になって“あっ!”そうだったんだど分かることって大事なことではないか。だからと言って一般の人向けに作品を制作する必要のないこと当然であろう。これこそアーティストの考え方の問題かもしれない。今回、引込線(所沢ビエンナーレ)を見てそんなことを考えるのであった。