奥のコーナーには、あまり大きくない女性像の彫刻作品が置かれていた。その像は正面に展示されている絵画を見ているようだ。手は写真を撮るときによく親指と人差し指とをL字にして風景を切り取るような仕草をするが、この女性像もそうしている。聞くところによるとドガの彫刻「踊り子」が長い間台座の上で堅苦しく立っていたが、その堅苦しさから解放され今や台座から降りて自由になって正面の絵画を見ている風景だそうである。その後ろには小さ過ぎる台座がある。いかにもアンバランス。もしや「ずれ」の表現か。誰でもガンダーの発想のよさ、面白さに納得させられるだろう。
また、明らかにドナルド・ジャッドの「スタック」を想像させる作品もあった。でも少し変だ。箱の数がジャッドより多いし、高い天井まで達している。ジャッドのアプロプリエーション(流用)作品だろう。素材はダンボールだろうか。面白いことにスタックの一番上に草が生えていた。"何だ!これは"、と。ミニマル・アートの硬さ、几帳面さをちょっぴり皮肉ったようでもあった。思考の柔軟性をそ知らぬふりして発揮する。こんなところがたまらなく面白かった。
壁に黒いカーテンがかかっていてその脇にキャプションがある。映像作品のコーナーだ。どんな作品だろうと思う。・・・・・してやられた感じだった。
テレビのモニターが2点床に置かれていた。両画面とも1分で針が一回転する仕組みのようにみえる。確かに片方は1コマが60分の1で正確に秒を刻んでいるがもう一方はそうではない。進み具合の早い分だけ一回転は実は1分に満たず51秒になっているらしい。前者は、(1コマ=1秒)×60回=1分 となるが、後者は、(1コマ=1秒−α)×60回=51秒である。αって何か、これがちょっと邪魔かな。"あっ!"そうか、と納得。皮肉のちょっぴり表現だろうか。
作品はまだまだあった。全てが分かったわけではないが、これだけ見ても面白かった。ライアン・ガンダーは美術史上の作品を取り上げユーモアを交えたり皮肉を取り込んだりする。ここではブリューゲル、ドガ、ジャッドなど時代を越えて自由自在に取り入れ作品にする。しかも一ひねりも二ひねりもしたユーモア、皮肉などを交えて制作するところが痛快。面白さと発想の素晴らしさに感心頻りだった。
今回の
「横浜トリエンナーレ」でも横浜美術館会場にライアン・ガンダーの作品があった。気にはなったが内容の理解不十分のまま見過ごしてしまった。今から思うと残念至極だ。
この会場では田中功起の作品がなぜか面白かった。映像が5点、そのうちの3点を見たが、中国のとある街中でのことだろう。公衆の面前で自筆の看板を掲げて屋根に何の目的もなく上がったり下りたりする手助けをわざわざ公衆に依頼するもの。こんな馬鹿げた行動を目的不明のまま本気で協力する人がいて凄く面白かった。ついでながら
「ゼロ年代のベルリン」展で見た中でネヴィン・アラダグの映像作品。戸外に出したドラムに強い雨、この雨が叩くドラムの音色は強烈で迫力そのもの。発想が実に面白かった。
ガンダーは1976年生まれ、田中功起は1975年生まれ、ネヴィン・アラダグは1972年生まれだ。三者の作品形態は全く異なるが、ユーモアを取り込んで制作するところなど根底にあるアートに対する考え方に共通点があるように思えた。この年代の特徴の一つかもしれない。70年代生まれのアーティストに関心があるのもこんなところからかもしれない。今やグローバル時代である。さもありなんである。ライアン・ガンダー展を通してアートの現況をより確認できたことは素晴らしい発見だった。