「フレンチ・ウィンドウ展:デュシャン賞にみるフランス現代美術の最前線」が森美術館(3/26〜8/28)で開催されている。デュシャン賞は20世紀で大きな影響力のあったフランスの美術家マルセル・デュシャン(1887〜1968)に敬意を表して設けられ、外国人も含めフランス国内に在住する最も革新的な美術家を毎年表彰するもの。フランスにおける現代美術作品の収集家で作る権威ある団体によって2000年に設けられたそうである。今回開催の「フレンチ・ウィンドウ展」はデュシャン賞授賞者と最終選考に残った作家、そしてデュシャンにより構成されている展覧会だった。(版権の関係で使用可能作品の画像のみ掲出)
展示室に入るとすぐのコーナーはデュシャンの作品が10点以上展示されていた。続いてデュシャン賞関連コーナーである。作品数はかなり多く内容は広い範囲にわたっていた。絵画、彫刻、写真、映像、インスタレーションなどに及び、フランスのみならず現代美術の最前線そのものを物語っているようだ。一つの傾向というより現代社会を反映しているのであろう発想が多種多様にわたっていた。印象に残ったもの、面白かったものを何点か選んでみた。
1. デュシャンの作品
デュシャンに敬意を払ってであろう。最初にデュシャンの作品が多数登場した。主なものは次の通り。()内64は再制作年。
《瓶乾燥機》(1914/64)。デュシャンのレディ・メイド作品。
《泉》(1917/64)。有名な作品(レディ・メイド)である。男性用便器を横に置きデュシャンがR.MUTTとサインして提示したもの。ダダ運動の活動家デュシャンにとってこの作品の提示ほど痛快に思ったことはなかったのではないか、と思う。ダダの運動は第一次世界大戦中に戦禍を逃れて中立国スイスやアメリカに渡った芸術家によって戦争に対する抗議として起こった。社会発展の結果が戦争を招いたとしてこれまでの文化に対してまでも抗議となって表れた。過去の価値観を捨てて新しいものを創造するという考え。
《L.H.O.O,Q》(1919/64)。ダ・ヴィンチの《モナリザ》にひげを付けた作品。既存文化の破壊という意味でこれまでの最高傑作ともいえるダ・ヴィンチの《モナリザ》をあえて選び、このようにしたもの。《泉》と同様の考えであろう。
《フレッシュ・ウィドウ》(1920/64)。「フレンチ・ウィンドウ」を捩って「フレッシュ・ウィドウ」としたもの。窓枠にガラスを入れる代わりに黒い皮を貼った作品。この展覧会名に相応しい作品かもしれない。
2.デュシャン賞関連作品
ブリュノ・ペナド(1970〜)
ブリュノ・ペナドの作品《無題、大きな一つの世界》。大きな人形が部屋の中央に置かれていた。あれっ!見た瞬間森美術館のグランド・オープニング展(2003〜04)で見たジェフ・クーンズ(1955〜)の大きな《クマと警察官》(1988)が思い出された。大きなクマとやや小ぶりの警察官が対話しているユーモアあるもの。クマのぬいぐるみは日常品だし、警察官も身近だ。このようなものを取り込んで制作。一種のアプロプリエーション(流用)だと思った。ブリュノ・ペナドの作品《無題、大きな一つの世界》も同様片手を挙げた大きなユーモアのある人形である。色は濃い茶色で黒人であろう。アフロヘアでもある。有名なフランスのタイヤメーカーであるミシュランのマスコットキャラクター、
ビバンダムを念頭に制作したようだ。ビバンダムは色が白くこの作品とほぼ同形。それを黒人に変貌させ頭にはアフロヘアである。胸にはThe Big One Worldを反転させて書いてある。まさにコピーだと言っているようだ。これもミシュランマンのアプロプリエーション作品に思えた。身近にあるものを取り込むことによってこれまでの固定観念を突き崩そうとする試みであろう。これを軽くしかも端的に物語っているようで面白かった。その他《無題、カリフォルニアのシステムゲームオーバー》(2007)もドナルド・ジャッドを横にしたようなミニマルアート作品を連想させながらそうでないところが面白かった。
マチュー・メルシエ(1970〜)
2006年東京オペラシティで開催されたダイムラー・クライスラー展でマチュー・メルシエの作品を見て印象に残っていた。今回もメルシエの登場は嬉しい。《ドラム&ベース「スタンレー」》(2003/10)は縦長の黒い棚に「赤」、「青」の日用品を載せ、棚の一部に「黄」を入れ込んでいる。まさにモンドリアンの絵画を連想させる立体作品である。こんな作品って自分の部屋に欲しい、“ふと”そう思う。きれいだしなんといっても面白いからだ。以前に見たものとほぼ同様の発想、典型的なモンドリアンのアプロプリエーション作品であろう。別室には作品《電気コード》(1995/2011)が白い壁から覗いていた。不思議に思ったが、これもメルシエだ。コードの色が「赤」と「青」であり「黄」こそなかったが、前の作品から推してこれもモンドリアンをイメージして制作していたのか、と。
また、デュシャンコーナーにあった《フレッシュ・ウィドウ》とほとんど同様の透明なプレキシグラス製の作品《無題》(2007)が展示されていた。これもデュシャンのアプロプリエーション作品であろう。でもこの窓からは外が見えた。そう配置した展示場所の選択もさすが、こんな風にこの作品をみるとメルシエが憎いほど面白かった。
キャロル・ベンザケン(1964〜)
キャロル・ベンザケンの作品《(失)楽園J》(2009)は不思議な感じの作品だった。画面が2重になっているようだ。奥は南国の島の風景であろう。海と島の木々が分かる。その上に白い絵具のタッチが画面一面に広がりまるで目の粗いカーテンのかかったような絵画だ。奥の具体的なイメージが今一つ分かりにくい。見方によっては抽象絵画と読めるかもしれない。風景画の上にこのような仕掛けを用いることで別世界が現出される。絵画の表面に白のタッチだけである。一つのアイディアであろう。なぜか引き込まれた。また、作品《マナ》(2009)は、《(失)楽園J》と同様な方法で制作した映像作品。小さな液晶画面3面からなっている。3面ともモチーフは同様だが微妙に異なる。人物の歩く姿が奥の画面、上は白い絵具のタッチが一面である。人物が歩く、この白い筆のタッチもわずかに動く。《(失)楽園J》の小さな映像版といっていいであろう。小作品ながらこれもよかった。
セレステ・ブルシエ=ムージュノ(1961〜)
このアーティストは音楽家であり、90年代に入ってから造形芸術に入ったそうである。作品《フロムヒア トウ イア 記録映像》(2002)。この題名は仮名で描くと分かりにくい。From here to earのこと。この作品は音を取り込んだ映像である。多数の小鳥を巨大なドームの中に入れる。その中には無数の金属製のハンガーが高い天井からほとんど下まで密集するように吊るされ、そこで鳥のとまったり飛んだりする動きによってハンガー相互の接触音が出るように作られている。金属製の餌や水を入れた皿も天井から何か所にも金属棒で吊るされ鳥がえさをつつくとこれもハンガーに触れ音が出る仕掛けのようだ。多数の鳥の動きにより絶えずいろいろな仕掛けが触れ合って音を発していた。高くもなく低くもなく不思議な音だ。途切れるいとまがない。装置考案の奇抜さに感心して見入る。巨大な鳥のドームの外周部は鑑賞者用のスペースのよう。ここで鑑賞者は音の仕掛けを見ながら音の世界に誘導される。音楽家のキャリアがあるからだろう。面白い発想に感心頻り。作品の制作方法にも狙いがあった。始め細部を映す。なんだか分からない。順次全貌へと導く。鑑賞者は次第にその内容が分かる構成である。何だろうと惹きつけられる。これも効果的だった。22分の映像。見ている間に2〜3分見て通過してしまう何人もの人たち。惜しい、引きとめたいほどだった。
トーマス・ヒルシュホーン(1957〜)
作品《スピノザ・カー》(2009)は、本、雑誌、台所用品など日常品、身の回りのものを自動車の周囲一面に貼付、同時にドアとトランクをあけ放しにし内部にまで日常品をぎっしり詰め込んでいる。自動車の痕跡が分からなくなるほどである。なぜこんなことをしたのか。現代の消費社会に対する抵抗だろうか、それともこの社会をもたらした政治に対する異議申し立てだろうか。とにかく暴力的作品だと言わざるを得ない。オランダの哲学者のスピノザにちなんで行われた「スピノザ、フェスティバル」で参加者と共に制作したものだそうである。スピノザ関連の本なども貼付されている。そういえば100年近く前にダダの運動が起こり、デュシャンは《泉》を提示した。ヒルシュホーンのコンセプトもデュシャンに通ずるところがあるのかもしれない。この展覧会はデュシャン賞展であり、この人はデュシャン賞受賞者だ。そう思うと現代社会に対する抵抗をこのような形で表現していると言っていいのかもしれない。
凄い。でも《泉》にはかなわないように思えた。