森本栄持(1970〜)(GALERIE SOL)。2点の丸みを帯びた立体作品が床に展示されていた。両者は異なるが不思議な形をしている。コメントには「自然界にある美しく嫌みのない曲線、膨らみというのはどの様にして出来ているのか。・・・嫌みのない美しいカタチが生まれることを願って・・・」と。多くのあまり大きくないアルミ板を袋状にして空気を入れて膨らまし、それをかなりの数、繋げて美しく嫌みのない曲線を描くように制作する。個々の丸みと全体の丸みを想定しているような抽象的造形物だ。嫌みのない美しい形ってどんなものだろう。人によって異なるのではないか。残念ながら必ずしも2点から嫌みのない美しい形は想像できなかった。
この他、鎮目綾子、葉山幸恵、羽毛田信一郎、伊藤知宏などの作品もそれぞれ特徴を見ることができた。
鎮目綾子(1981〜)の作品は、一見抽象絵画のように見えるが、都会の風景を描いている。表現方法、色彩の点から暗い感じだ。現代社会の一面を指摘しているのかもしれない。描写が独特で魅力的、抽象絵画とみても面白いのでは。
羽毛田信一郎(1972〜)の作品は、屏風と障子を兼ねたような支持体に描かれた作品である。この支持体の表現が面白い。なぜ「蟹」か。コメントを見ても分かりにくかった。
伊藤知宏(1980〜)は、野菜など日常的な素材を取り上げて描いている。「身の回りにあるものを線で描く・・・」と。壁面に何点かの野菜を描いた作品を展示。力強い表現である。大きな作品が似合いそうである。
葉山幸恵(1971〜)は、コメントに「・・・水は蒸発し、泥ではなく描画材が、かつてここに水たまりがあったことを教えてくれる」と。水を連想させる抽象絵画だ。画面の青い絵具が水の虚像なのかもしれない。
全体の印象は昨年より面白かった。前述の通り、80年代生まれがはじめて主力で登場した年のように思えた。僅少例だが、若手のいろいろな作品を見て、新しい傾向が読み取れるかどうか楽しみだった。
全体を見て、コンセプトが分かりやすい、緩やかさ、曖昧さ、遊び心がある、面白い、日常性、身の回りにある、などに当てはまる作品に親しみを感じた。専門家の視点でなく、ごく普通の鑑賞者だからかもしれない。
以前のPEELERに
「美術の今を探る」として、現況を勝手ながら5つに分類し、その傾向を見た。今回の作品をこの視点から見るとどうだろう。下記5項目がそれである。同一アーティストが複数項目に属することもある。
「社会へ言及しようとする表現」では、
富田菜摘は遊び心を取り入れながらも社会の現況を的確に捉え、やや批判的に表現しているようだ。
鎮目綾子はやや暗い表現を用いて、現代社会を深刻に捉えているのだろう。
柏木直人の人物像の表情から現代社会のやや暗い一面が読み取れるように思えた。
「領域を横断する表現」では、
山本聖子は、住まいの平面図だけを素材に制作する。平面図のアート化であろう。建築との領域を横断する表現といえるかもしれない。
「新しい領域を切り開こうとする表現」。このように分類すると何でもここに入りそうである。
田中千智の夢の中で強く印象に残ったもの、あるいは感じた恐怖の絵画化か。シュルレアリスムとは異なった意味で一つのコンセプトかもしれない。
森本栄持の膨らませたものを多用して美しく嫌みのない曲線、膨らみをもった構造物を制作する。発想は面白い。
羽毛田信一郎の屏風、襖、障子などの複合したものを支持体として用いているなど。この発想も面白い。もっとこの人の作品を見たいものである。
「ずれや日常性に関する表現」。これは最近の傾向の一つかもしれない。
山本聖子の日常生活には不可欠な住まいと身の回りにある新聞雑誌の広告などの活用、
富田菜摘の行列、電車の中など日常茶飯事に発生すること、
伊藤知宏の日常使われる野菜をモチーフとする、また、
豊泉綾乃のずれの表現などである。
「実像(実態)と虚像(虚構)に関する表現」は、
山本聖子の作品は平面図と壁面に映る影とのコントラストがそれぞれ実像、虚像となって見るものに立体感、不思議な感じをもたらす。
葉山幸恵の水という実像を念頭に絵具で水の虚像を表現しているのかもしれない。
この時代に生きるものとして「アートの現況がどうなっているか」、そして「今後どうなっていくのか」に関心がある。それはこれからの人たちが何を考え、どのような作品を制作しているかに繋がる。その延長線上で今回の展示を見た。こう見ることで自分なりに現代の傾向がほんの少しばかり見えたように思う。「新世代への視点2010」を通していろいろなタイプの作品を見ることができた。中には面白い作品、感心させられる作品にも巡り合えた。それぞれが思考をめぐらして制作している様子が手に取るようだった。見てよかったとつくづく思う。各人の今後の活躍を期すと同時に、この企画の今後の発展を期したいものである。