topcolumns[美術散歩]
美術散歩


興味湧く「アーティスト・ファイル2010」展

TEXT 菅原義之



 国立新美術館で開催の「アーティスト・ファイル2010」展は今年で3回目である。この展覧会は、「国内外で最も注目すべき活動を展開しているアーティストを選抜し、紹介する」ものだそうである。今回は国内6名、海外1名の計7名が選ばれた。特徴として、特別のテーマを設けず、年齢、ジャンルを問わない。「時代のリアリティーを浮かび上がらせること」が目的だそうで、いわば時代の最先端を模索するものであろう。興味湧く注目すべき展覧会ではないか。毎年誰が選ばれどんな作品が紹介されるのか楽しみにしている。今回も面白い作品が何点も見られた。

南野馨 《Untitled 0903》 2009年 陶



南野馨(1966〜)
 2点の大きな作品≪untitled≫。一見金属でできた大きな作品と思われるがセラミック製立体作品である。白と黒の6角形の造形物がボルトナットでいくつも連結され長さは4メートル以上に及ぶ。迫力ある作品だ。色彩、形態、大きさからそう感じるのかもしれない。この作品はセラミック製で一種の陶器である。陶芸作品はこれまで工芸と見られていたが、現在は何でもありの時代。中身で勝負だ。
 以前、東京国立近代美術館で「工芸の力―21世紀の展望」展があった。その時当時の同美術館工芸課長で現在評論家でもある金子賢治が工芸的造形論を述べているのを知った。簡単な表現だが参考になるので紹介しよう。
 金子の対談主要点を抜粋すると「本当に極端な云い方をすると、発想から始まって行って素材が後から付いて行く造形と、素材から始まって、その中に発想をはめ込んで行く。要するに、世の中の造形はその二つしかないのです。素材から始まる方を、工芸的造形、そして発想から始まる方を現代美術。その二つが合さって、現代の視覚的造形芸術がある、・・・」と。
 南野は作品を制作する前に緻密な設計をして、焼くことによる大きさの縮小まで計算に入れて制作するそうである。南野の作品は金子理論によれば「発想から始まる」ものであろう。
 ここで「越後妻有トリエンナーレ」で見た杉浦康益の作品が思い出された。2009年の≪風の砦≫、2006年の≪風のスクリーン≫である。両者とも中空の大きめのレンガを制作し、それを積み上げ巨大な造形物にして戸外に設置したものである。まさに砦だ。南野の作品と異なるが、これも「発想から始まった」ものであろう。
 金子理論によれば「発想から始まる」作品であればブロンズ、土など素材を問わない。「やきもの」からなる南野の白と黒の量感あふれる幾何学的造形物がかくも迫力ある作品になるとは、と思う。


桑久保 徹 《光の毒》 2009年 油彩/カンヴァス
(C)KUWAKUBO Toru Courtesy Tomio Koyama Gallery





桑久保徹(1978〜)
 多くの絵画が展示されていた。花瓶のシリーズと海岸風景シリーズだろうか。どちらも単に花瓶や海岸風景を描いたものではない。前者は花瓶の口から人が上半身を覗かせているもの、反り返った口に人が座っているもの、口にリンゴが乗っているものなど変わった作品である。花瓶が何かを意味しているんだろうか。一方、海岸シリーズはどうか。そこには想像できない光景が展開されていた。作品≪アトリエ≫、≪生活風景≫、≪霊園≫、≪白い箱≫、≪ダンスレッスン≫、≪ダ・ヴィンチの月≫、≪恒星と穴≫、≪農民の婚宴≫、≪光の壺≫などなど。どの作品も海岸風景が描かれ、砂浜で「日常生活」、「催し」などが営まれている。不思議だが面白い光景だ。砂浜が舞台なのかもしれない。09年以降の作品を見るとこの光景にさらに十の字が画面に散在しているように思える。十の字をあしらった薄いカーテン越しに舞台を見ているようでもあった。
 花瓶シリーズ、海岸風景シリーズともに幻想の世界、夢の世界を表現しているのだろうか。全体に厚塗りで色彩表現はかなり強い。作品によってはゴッホを連想させる。
 桑久保の作品に惹かれるのはなぜか。幻想の世界を用いて画面構成し、大胆と繊細とが同居した巧みな色使いで表現する。ここが魅力的なのかもしれない。



福田尚代 《夏への扉》 2003年 本に刺繍
作家蔵
撮影:飯田博之



 
福田尚代(1967〜)
 福田の作品は以前にうらわ美術館で「オブジェの方へ―変貌する『本』の世界」展で見た。本を素材として彫刻作品を制作する。面白い。素材は「どこにでもあるんだなー」とその着想に感心した。今回の展示作品も同じものだろう。多くの文庫本を立てて並べる。全ての本の見開き部分の上下の角を丸型に削る。上から少し下の部分を再度削りくぼませる。人の頭部を連想させる。作品≪佇む人たち≫である。本の並んでいる姿はまさにその通りに思えた。
 展示室正面に大きな文字で文章が展示されていた。もしかすると回文かもしれない、と。やはりそうだ。長い回文。よくぞ考えたものだと驚いたが、それだけに留まらなかった。多くの長い回文作品が壁面に紹介されていた。
 その他1冊の文庫本の中央部分で自分の気に入ったところだろう、1行だけ見えるように取り出し後は半分に折りたたんでしまう。1冊で1行だけしか読めない。このように加工した本が54冊壁面に並んでいた。それぞれ1行だけ選んでいる。福田によると1冊1行を順次読んでいくとなんとなく筋が出来上がるという。意味があるように考えているのかもしれない。
 ほかに「はがき」、「名刺」などの文字を刺繍していく。文字が読めなくなるが、形は残っている。作品の大きさと文字の配列から名刺だと分かる。はがきも同様である。
本の彫刻、回文、刺繍など全て文字を中心に作品にしていく。日常品、身の回りのものを素材とする典型例を見るようだった。着想が素晴らしかった。


斎藤ちさと 気泡シリーズより 《クローバーの絵》
2009年 ラムダプリント



斎藤ちさと(1971〜)
 炭酸水を入れた透明の容器から発生する気泡を通して向こうの世界を撮った写真である。気泡越しに見る光景はこれまで見たことのない独特の雰囲気がある。どの作品も気泡が前面に浮かびあがり、その背後にいろいろな光景が映る。あくまでも気泡が主役である。背後の光景はピントの合ったもの、そうでないものなどあり、全体を鮮明にするか、気泡に焦点を当てるかが作品の運命を決めるのかもしれない。気泡に焦点を当てている作品、なぜかこれが魅力的だった。背後は抽象作品のよう。“ボーっ”として、なぜかリヒターが浮かんだ。リヒターは絵画にせよ、写真にせよ、作品に薄いカーテンがかかっていてカーテン越しに見ているように思えてならない。その背後に何がと思わせ魅力的だ。
 斎藤の作品は、本来気泡が主役だろうが、気泡をあしらった薄いカーテン越しに見える背景。なぜかこれが気になる。これも見事な気泡のなせるわざかもしれない。

 美術の「傾向」とか「流れ」とかの大きな物語のない中で現代のアーティストはどのような思考をめぐらして制作しているのか。関心あるところだ。アーティスト・ファイル展は、これに応えてくれた。現代の美術の最先端に触れる興味あるものだった。7名が選ばれ、それぞれが素晴らしい作品をみせてくれた。今後の発展を期したいものである。

 
 
著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生、生命保険会社退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室MOMASコレクション作品ガイド)を行う。

ウエブサイト アートの落書き帳

・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。

・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。


topnewsreviewscolumnspeoplespecialarchivewhat's PEELERwritersnewslettermail

Copyright (C) PEELER. All Rights Reserved.