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[美術散歩]
美術散歩
「生きる展」
TEXT 菅原義之
「生きる展」フライヤー/横須賀美術館
「生きる展」図録表紙
横須賀美術館の開館記念展である「
生きる展
」を見た。品川で京浜急行に乗り換えて約1時間で馬堀海岸駅に着く。バスで15分ほど。そこに横須賀美術館はあった。海岸から山に伸びる緩やかなスロープ中腹にきれいなたたずまいを見せていた。目の前に東京湾、その入口近く、房総半島も間近である。船舶の絶えず行き来する様子が手にとるようだった。一方、背後は山岳部である。美術館屋上から山道に直接繋がっている。山の緑もきれいだ。都会地では見られない素晴しい環境の美術館だった。
「生きる展」は現代美術家9人の作品展である。写真、映像(ドローイング・アニメーション)、立体(彫刻)、絵画、インスタレーションなどである。現代美術の世界をほとんどカバーしているかのようでもあった。写真は石内都、映像は石田尚志、立体(彫刻)は舟越桂、ヤノベケンジ、岡村桂三郎、真島直子など、絵画は小林孝亘、清水慶武、真島直子(鉛筆画)、インスタレーションは木村太陽、ヤノベケンジだった。
それぞれ「生きる」を主題にした作品が展示されていた。特に印象に残った作品を見てみよう(順不同)。
石内都(1947〜)の作品は年老いた女性の身体の一部をクローズアップした写真だ。これまでの苦労とか病気の痕跡に焦点をあてている。身体の一部変形、手術のあとなど数々の痕跡を写真に撮り、しかも生きる素晴しさ、耐える素晴しさを表現している。決して心地いい感じは抱けないが、強さ、忍耐、根性などを痛感する。ゴッホの《農民の靴》を思い出した。真理・真実・真相を追究していると映った。
石田尚志(1972〜)の作品は抽象のドローイング・アニメーションである。作品《絵馬・絵巻2》は掛け軸のような縦長の抽象絵画が3点額入りで展示され、隣のモニターから3点が順次映像として流れる作品である。最初3点中の1点が映像として流れ始めた。植物の蔓のような線が何本も何本も下から上に流れていく。あたかも増殖していくかのようである。しかも音楽入りである。1点目が終わると、その上に2点目の作品が重なるように流れていく。石田は抽象的な線画を描き、アニメーション制作の手法で、それらをコマ撮りしてつなげるのだそうである。
彼は音楽の視覚化、つまり音楽を描きたいとかねてから思っていたとのこと。音楽の表現法がユニークである。絵画の一部(パターン)と楽譜とをシンクロさせ、絵画をモニターに映すと該当音楽が流れる仕組みをつくっている。面白い発想だ。どんどんと変わっていく音楽つき映像を興味をもってみることができた。
舟越桂(1951〜)、作品7点が展示されていた。スフィンクスのシリーズほか4点である。新作では《月食の森で》(2007)、以前のでは《水に映る月食》(2003)。両作品は台座が異なるだけでかなり似ている。腹部がやたらに太っている。女性の象徴的表現だろうか。スフィンクスの中の1点は胸部が女性、下腹部が男性、両性具有作品だ。性差の解放、超越を意味しているのかもしれない。全体に新しい感覚の作品、いずれも違和感なく見ることができた。(詳細は「
横須賀美術館のグランド・オープニング展を見る
」を参照ください。)
小林孝亘(1960〜)はずっと具象絵画を描いているが描き方が独特だ。「単純表現」、「静かさを感ずる」、「時間の静止」、「光の効果的表現」、「普遍性の抽出」などが特徴だろうか。描く対象の本質を捉え、小林の脳裏を通過する中でその部分だけが抽出され、独特の作品が生まれる。日常家庭で使うものとか、森とか、家とか、人物などが多い。
《Forest》(2000)、《Portrait-beard》(2006)、《Dream,dreaming us》(2006-7)の3点が特に印象的だった。(詳細は「
小林孝亘の作品
」を参照ください。)
ヤノベケンジ(1965〜)の作品《青い森の映画館》が1階の入口付近に展示されていた。これは子ども専用の紙芝居式の映画館で、腹話術で核攻撃から身をどのようにして守るかの映像作品。隣にはヤノベの開発した大きな黄色い防護服を着たトらやんが立っていた。
地下の展示室はすごかった。大小トらやんが並んで行進している。行列の中央には観覧車も置かれている。黄色い防護服を着た大トらやんを先頭にかわいい小トらやんが100体ほど整然と行進。行列の両脇には大トらやんが5体づつか、行列を守るように行進していた。フローラ(ラッパ)を背負い銀色に光ったアルミ製のジャイアント・トらやんは一番奥に鎮座。まさに大仏を見るようだった。大小トらやんの着ている黄色い服装はサバイバルスーツで胸に放射線を感知するガイガーカウンターと食糧貯蔵用スペースを備えている。色彩もさることながら行列が目立っていた。見事なインスタレーションでもあった。
ヤノベは社会問題を根底に機械彫刻作品を制作している。我々を取り巻く環境は極めて厳しい。チェルノブイリに代表される諸問題を始め、各種の危機を乗り越える意味で「サヴァイヴァル」から「リヴァイヴァル」へとよりポジティヴな姿勢で未来を見つめて作品制作をしていると見ることができるだろう。
木村太陽(1970〜)の作品はかなり刺激的だった。《Big Mistake》は掃除機のホースを人の口にいれ、尻からホースを出しゴミの収集装置に回収する作品である。人体が掃除機のホースの一部となっている。口の部分には空気が漏れないようにガムテープで顔を一面覆っている。ブラック・ユーモア作品である。この作品を見て強い口調で女性監視員に怒っている年配の女性を見た。作者の意が通じたようだ。
また、《名前募集中》は美術館展示室にいる女性監視員を作品にしている。女性の首から上にビニールの袋がかけられ、膨らんだりしぼんだりしている。彼女は苦しそうに呼吸している。両作品とも息が詰まるような気がした。
《Life’s An Ocean/Dead Finks》は男女の裸体マネキンが向かい合い、密着している立像をジッパーのついた幅5cmほどの布で頭から足までグルグルまきしている。ところどころジッパーが開いていて中の様子が見える。二人だけの時間を外からわざわざ見えるように制作。見る人の真理を憎いほど捉えている作品かもしれない。ここに狙いがあるのだろう。「生きる」あるいはその周辺「愛」、「死」などをいろいろな角度から表現しているかのようだった。
最後に全貌してみよう。
小林は1960年生まれで、奈良美智(1959〜)と同年代である。両者共に具象絵画を描いている。奈良は子どもの心を描く、子どもの内面性を表現している。小林は日常品、家、森、人物などを描き、対象の本質、普遍性を描くといってもいいだろう。松井みどりは奈良をポストモダン文化の「第二世代」だとしているが、小林も同様と見ることができるだろう。
また、ヤノベは社会問題を洞察し、作品に具体的に反映させているが、内容はコンセプチュアルだ。奈良と作風は全く異なるが、生まれの年代、作品内容から見て、ヤノベも「第二世代」だと考えられるだろう。
70年生まれの木村太陽はどうか。作品は決してメインストリームの中で制作するのではなく、日常的な事柄、小さな創造、取るに足らない出来事、僅かなずれの表現などを取り上げ制作している。僅少例だが、掃除機、女性監視員、風船などや「笑い展」で肉を洗濯機に入れる、生の魚を加えて魚の歯を磨く、目のしわで箸を使うなどからもマイクロポップ「第三世代」のチェックポイントをいくつかクリアーしているように思う。こんなところから木村は「第三世代」といっていいのではないか。
舟越桂の今回の作品を見ると以前と異なり伝統的彫刻の世界から大きく離れたポストモダンの地点に飛翔しているように思えた。ポストモダン時代の彫刻(立体作品)といえば思い出されるのはマイク・ケリーの「縫いぐるみ」ではないだろうか。彫刻作品も木やブロンズなど堅い素材だけの時代と異なり、「縫いぐるみ」までも作品として登場したということができるだろう。ヤノベの《とらやン》だって機械彫刻(立体作品)である。伝統彫刻の延長線上のものだろう。時代と共に彫刻(立体作品)も大きく変わっている。様変わりしている。美術の世界も決して他の世界に遅れをとっていないのを確認できたようだ。
新しい美術世界の縮図を見るようで考えさせられるいい美術展だった。
著者プロフィールや、近況など。
菅原義之
1934年生、生命保険会社勤務、退職後埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。
・アートに入った理由
リトグラフ購入が契機、その後現代美術にも関心を持つ。
・好きな作家5人ほど
作品が好きというより、興味ある作家。
クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。
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