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美術散歩




開館3周年記念展
ポーラ美術館の印象派
モネ、ルノワール、セザンヌと仲間たち
(上、フライヤー/下、展覧会図録)

印象派展を見て

TEXT 菅原義之

 先日箱根のポーラ美術館に行った。印象派展をやっていた。セザンヌの「ラム酒の瓶のある静物」(1890年頃)を見た。よく見るとすこし変だ。テーブルの上にラム酒の瓶といろいろな静物が描かれている。真ん中部分に白い布。その左右でテーブルの描き方がおかしい。テーブルの左右の稜線が合わない。どう見ても視点が違っている。右側は低い視点から、左は高い視点から見たものであった。この頃のセザンヌはこういう作品が多いが、これが面白かった。

 20世紀美術はセザンヌから始まったと思っている。このような“複数視点描法”によるデフォルメがきっかけで思わぬところまで変わっていったからである。
 この描法にピカソとブラックが影響を受け、いわば破壊と再構成を経て“キュビスム”を誕生させた。また、モンドリアンやマレービッチは、このキュビスムを通過し“抽象絵画”に入った。 
 デュシャンの「階段を降りる裸体No.2」(1912年)が“動き”を表現していて“反キュビスム的”だとパリのアンデパンダン展時に非難された。しかし翌年のニューヨークのアーモリー・ショーでは評判となり、デュシャンはアメリカでの活躍の機会を手にした。そして1917年ニューヨークのアンデパンダン展にレディメイド「泉」を発表、問題となった。
 デュシャンは既存の感覚、感性に訴える美術を放棄し、思考する美術を目指した。作品として当時の科学技術を駆使した工業生産物(レディメイド)を選択。選択した生産物に特別の名前「泉」とつけることによって機能部分を消滅させ“生産物=作品”の世界を作り上げた。いわば“目で見る”から“頭で見る”つまり“思考する世界”である。
 そのデュシャンが、結果的に20世紀後半の美術に大きな影響を与え、現在にまで及んでいる。特にネオ・ダダ、ポップ・アート、コンセプチュアル・アートなどが顕著な例であろう。
 こう見ると、ひとつの見方として、20世紀美術の源泉はセザンヌであったといえるのではないか。セザンヌが“近代絵画の父”といわれるゆえんでもあろう。

 美術館でガイトとして作品説明をやっているといろいろな質問に遭遇する。これは大事なことでお客様が何を考えているか質問は端的に教えてくれるからである。これらは一般の人たちの考え方だともいえるであろう。
 過去5年間に美術館サポーター(ガイド)の受けたいろいろな質問を見ると、美術館の展示作品によって、質問に片寄りがあるが、細部を除き、総じて「印象派」、「抽象絵画」、「現代美術」に集中していた。特にこの三項目にお客様の関心があるのではないか。
 抽象絵画については「どのように見たら分かるか」、現代美術もほぼ同様「どのように現代美術を見ればよいか」であった。

 「抽象絵画」について多くのお客様は“分からない”という。21世紀になった現在、これでは、20世紀の初めに出現した抽象絵画のところで立往生、ほぼ100年間、皆で足踏みしていたことになる。抽象絵画で躓いていては現代美術どころではないであろう。これは決してお客様が悪いのではない。日本の環境がこうしているからである。
 “分かる”“分からない”を判断基準にすると抽象絵画は誰も分からないのではないか。どのように“感ずるか”の見方が大切であろう。

 池田満寿夫が面白いことを言っている。
 「日本ではどうしても、抽象絵画は今ひとつ人気がない。
 いまだに抽象絵画は難しいという印象が抜きがたくある。だから『モンドリアンとかカンディンスキーのどこがいいんですか』とくる。そう言っている人の洋服やネクタイを見ると、もうこれは立派にモンドリアンやカンディンスキーをしている。このあたりが面白いところで、模様だと理解できるのに、絵となると、
『えっ、これが絵ですか』
ということになる。・・・」


美学への招待」(佐々木健一著 中公新書)

 図書「美学への招待」(佐々木健一著 中公新書)で、芸術について興味のあるわけ方をしている。
 「永遠の芸術」と「現代的芸術」に分類し、それぞれを「永遠型」と「問題提起型」とし、「永遠型」に、クールベの「オルナンの埋葬」、モネの「印象・日の出」を、「問題提起型」にはデュシャンの「泉」(間接的に)、ウオ―ホルの「ブリロ・ボックス」を取り上げている。「永遠型」は知覚の問題であり、「問題提起型」は観念(コンセプト)の問題であるとしている。
 したがって、「現代美術作品」を見る場合、コンセプトがどうかをみることが理解に繋がるのではないか。前述の“思考する世界”である。
 作品を見てそのコンセプトが分かる場合もあるし、分からない場合もある。分からなくとも何となくいい作品だと思えるものもある。分かると興味を覚える、説得力を増す。分からなくて苛立つものもある。これらが渾然一体となって見る側を刺激する。
 分からなければ、どうしても分かろうともがくこともある。これも大切である。
 時には、“なぜか惹かれる”、“面白いと思う”、“また見たいと思う”、“何時までも記憶に残る”などいろいろな形でわれわれを魅了する。
 21世紀になった今、時代に遅れないために、もう一度、時代に会った見方をすることが必要ではないか。いくつかの「物差し」を用意し、柔軟に使い分けることであろう。

 印象派展で見たセザンヌからとんでもないところまで来てしまった。セザンヌと現代美術もそう遠いところの問題ではないように思う。現代美術もセザンヌの延長線上にあるのだから。

著者プロフィールや、近況など。

菅原義之

1934年生まれ、中央大学法学部卒業。生命保険会社勤務、退職直前の2000年4月から埼玉県立近代美術館にてボランティア活動としてサポーター(常設展示室作品ガイド)を行う。

・アートに入った理由
 1976年自宅新築後、友人からお前の家にはリトグラフが似合うといわれて購入。これが契機で美術作品を多く見るようになる。その後現代美術にも関心を持つようになった。

・好きな作家5人ほど
 作品が好きというより、私にとって興味のある作家。クールベ、マネ、セザンヌ、ピカソ、デュシャン、ポロック、ウォーホルなど。




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