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山形の線が海の波だとしたら、それよりずいぶん大きなサイズの人です

揺れ動き続ける絵画

TEXT 中村千恵


  a)重力を感じない姿勢です
b)はしご
c)はしご「よかったらのぼって見てください」





 会期中に描かれ続け、最後には物として残らず消されてしまう大浦こころさんの壁画を観た。
描かれていく中で来場者とやりとりしていく中で既に描いたところも意味が変化し続け、見ている自分が近づいたり高いところから見たり話を聴いたりする度に自分にとっての意味付けも変わり続ける、いろんな意味で揺れ動いているような作品だった。

 全体が波のような砂漠のような、山形の線で埋め尽くされた中に、波にしろ砂漠にしろ比率としてリアルではない大きさの人物が、浮かんでいる。ちょっとした高さの脚立が置いてあったので登ってみると、ちょっとした高さの違いに過ぎないのに、壁の線だったものがいきなり波打って見えた。見渡す限り海原の中を進むフェリーで、甲板に出て眺めるあの海面の波打つ感じ。脚立から降りても、一度感じたその動きは自分の中で継続して、重力なくぷかりと浮いた絵の中の人の無重力な感覚を追体験するよう。「地に足のついた」という表現はしばしば比喩的に使われるけれど、どんな放蕩している人だって物質的に言えば基本的に地に足がついている。宇宙飛行士か水中で暮らしていない限り。その浮遊感は、比喩的に地に足がついていない状態を体験するような感覚でもある。ぷかぷか、気持ちいいようでいて、その中に不安な気持ちもかすかに入り交じる。

 壁画は会場の壁3面に描かれている。ひとつの角は暗い闇になっているのだけど、ほんとうに闇の空間が広がっているようだった。屏風もそれを活かしているわけだが、角という立体の空間を生み出す力に、改めて恐れ入った。
その闇に対して一方から一人の人が向かい、反対の一方には、もう少し小さい人が、物ではなく魂そのものであるかのように白くもやもやと、闇に消えそうにいる。消えそうなのか、あるいは、現れ出てこようとしているのに確かな輪郭線を持てないでいるのか。

 上記のふたつの要素は、壁にもともとあったように見える柱の存在によって分断されている。「あ、これが分けてしまっている、邪魔だな。こんなのあったっけ?」と、ふと考えてみると、リニューアルされたばかりで最初からギャラリー空間として使われることが分かっている壁に、そんな装飾的な柱が浮き出ているわけなどない。近寄ってみると立体感のある白いざらついた粒子によって輪郭が描かれたものであることがわかった。最初、邪魔だと思ったもの。絵の世界・窓の向こうの世界の成立を邪魔していると思ったもの、つまり、不要だと少しも疑問なく思ったものが、描かれたものであったことにささやかに衝撃を受けた。必要だから描かれたのだ。過去作品のファイルを拝見すると、キャンバスに描かれ額に入って展示された作品の中にも同様の柱が描かれていた。でも、なんのために?

 
 

d)本当にそこに闇があるようでした
e)本物の柱の跡に見えたけど、近寄ると描かれたものであることがわかる
f)柱の跡があるかと思った
g)プカプカ浮いている人がきらきら金色に光っていると思ったら、近づいてみたら砂でした
h)作家トークの前にまず、その場にいる全員に鉛筆が渡され、「自分を描いてください」
i)描いた人全員、順番に自分の描いたものをアーティストトーク(!?)
右は今回のキュレーター花田氏。
j)自分が描いたやつ、、、海の奥深くに潜って行こうとしているところです
へたくそだったのでうさぎかと思われました。
このページの写真は全て(C)大浦こころ
 頭の方から眺めた構図の、重力なく目を閉じて浮かんでいる人に、塗り込めるわけではなく刷毛ではいたような手でつけてのばしたような感じで金色がつけられて、光の加減や角度によってきらきら光っていた。近づいてみてそれが顔料ではなく砂浜の砂であることがわかると、急に絵とそのきらきらの物質感との距離感が揺れ動いた。奥行きをもつ空間が広がる絵の中の世界に対して、その表面に、その中に入っていけない平面感が立ち表れ、その砂はわたしがつけたものではないけれど、自分が手を伸ばして触れようとしても触れられない存在なのだと思わされた。
そのぷかぷかした感じは外の世界から母親に守られて羊水の中に浮かんでいるようなイメージを喚起させた。人はひとりでは生きていけないのでどうしても社会と関係を持ちながら生活するけれど、自分の内側に、世界を見るための「目」を閉じて黙々と、物事を感じたり考えたりするけれど外に発信することはない、触れようとしても触れられない、外側の自分と反対の静かな存在があるのだと思う。それを「こころ」と呼ぶとすると、その内側の自分の姿を可視化したのがぷかぷか浮いた人たちで、内側にあるものを外に置いてみると、あるのかないのか漂っている存在のような、白いもやもやになるのではないだろうか。角の闇は自分でも操作できない無意識というブラックボックスで、地に足をつけ闇を見つめるその向こう側に現れ出るその白いもやもやは、柱という現実の物質が変換した内面の世界では、輪郭をもってぷかぷか浮かんでいる。

 描かれ続けた最終日には、作品の中に自分を描いてみようという趣向で会場に集まった人たち全員に鉛筆が渡された。
少し話は変わるが、事務所をオンザテイブル(英語表記だとon the table、現在は解散)と名付け、実際プロジェクトを進める際にまずすることはみんなが同じテーブルについて議論できるための、テーブルを作ること、という川俣正氏が、'01-02年に水戸芸術館で開催された「川俣正 デイリーニュース」展の時に「ようやく他人の手の介入を受け入れられるようになった」とインタビューに答えていた。あれだけ他人と共同作業を続けている作家でさえ、他人の手が介入することへの抵抗は大きいのだということが印象的だったので、この壁画に参加者が描きいれる企画を作家自身がにこにこと見ていたことが不思議に思えた。これはこの参加者というのが「現実」でありそれを受け入れるのは柱を描くようなことなのであろうか。
興味深かったのは、その波か砂漠か荒野か解釈は人それぞれだったがその環境の中で、人と人が干渉し合わなかったこと。小さなお子さんふたりが手をつないだ自分たちを描いていたけれど、その二人とそれ以外はなんら干渉していない。目をつぶって浮かぶ人のまわりに思い思いに描かれたそれぞれの内面的な自画像はやはり手を触れられない静かな存在だったのだと思った。
それぞれにとってのこの絵画のとらえかたに、その人にとっての自分が加わって、作品全体がまた変化した。

 そしてその数時間後、次の展示のため壁画は消えることになる。最初から消えることがわかっていて描くということは、残った物ではなくてその描くことや描いて空間が変化していくその変化自体がこの作品だということだ。この作品に限らずすべての事象は変化し続ける。ほんとは世の中すべてイメージみたいなものだ。確かに存在するものなんて変化しかない。過去と現在、現在と未来の間にある変化しかない。
浮遊していて地に足のつかない不安だけれど自由な感じ、はっきり存在せずもやもやとそこにある感情や感覚や存在などは、窓の向こうではなくて実は現実とつながっている。あの描かれていた柱は一見、現実と窓の向こう側との距離感を感じさせるけど、逆に向こう側と現実をつなげているのかもしれない。

大浦こころ個展「こころの動き」

ギャラリーアートリエ
2008年1月12日-2月11日
キュレーション;花田伸一(フリーランス・キュレーター)
 
著者プロフィールや、近況など。

中村千恵(なかむらちえ)

'79愛知県豊田市生まれ。
'98北九州市→'02再び豊田市→'05渋谷区→'06.3末より福岡市在住。
比較文化学科で学んだ後、社会人を経て'06.3美学校アートプロジェクトラボ修了。

 

 


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